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理解と共感を切り離す

福島市に「フォーラム福島」という映画館がある。
新作映画も上映するシネコンではあるのだが、単館で扱うような映画もやってくれる良い映画館である。その映画館が3月から3.11関連の映画をほぼ週替わりで上映している。いろいろ理由をつけて、あまり行けなかったのだがようやく見に行くことが出来た。

見たのは「決断 運命を変えた3.11母子避難」という映画で題名のとおり、福島第一原発事故後の自主避難者にフォーカスを当てたドキュメンタリー映画である。

まず、「自主避難」という言葉を説明しておこう。
2011年の福島第一原発事故を受けて、原発周辺の12の市町村には避難指示が発令された。避難"指示"なので、住民は有無を言わせず避難するしかない。
映画「シン・ゴジラ」で平泉成演じる里見総理臨時代理の「避難とは、住民に根こそぎ生活を捨てさせることだ。簡単に言わないで欲しいなあ」というセリフが出てきたのだが、まさにそういう「根こそぎ生活を捨てさせる」という出来事が、情報が錯綜するとんでもない状況下で展開された。
そして、無理のある避難は高齢者を中心として人々の生命・財産・心身の健康をむしばんだ。東日本大震災における災害関連死が福島県を中心に発生したのは、その結果の一つに過ぎない。

2024年4月1日現在、12市町村のうち楢葉町や田村市、川内村など多くの市町村では避難指示が解除されたのだが、今なお双葉町・大熊町・浪江町などでは域内の一部に避難指示が出たままになっている(「帰還困難区域」という名称が付いているエリア)。
これが言うなれば「強制避難」であり、よくマスコミでフォーカスされるのはこちらだ。

これに対して「自主避難」は12市町村以外の避難指示区域外の住民が自主的に避難した動きである。自主避難という言い方以外に「区域外避難」と呼ばれることもある。
避難指示が出ていないエリアの住民が勝手に避難したという印象があるかもしれないが、そもそも避難指示区域となったエリアは年間積算線量20ミリシーベルトを基準にした線引きにすぎない。20ミリシーベルトというのは、原発作業員や放射線技師など放射線に関する職業に従事する人たちの健康管理の基準として使用される数字で、緊急時の被爆の目安にもなっている。
ただ、20という数字はあくまでも仕事としてかかわったり、緊急時の目安であって、通常時の一般人は年間1ミリシーベルトが目安である。そう考えると「20ミリシーベルトで線引きされた区域の外というだけで本当に安全なのか」という不安を覚えるのは、そこまで理解しがたい話ではない。ことこれが小さな子どもを持つ親であれば、なおさらだろう。

実際、自主避難をした人の多くは子どもを持つ親であり、特に女性が多かった。映画は、このような自主避難者にフォーカスを当てている。
10組の自主避難者のインタビューやその姿によって構成され、北は北海道、南は沖縄まで全国各地に避難した自主避難者たちの語りを鑑賞者は聞くことになる。
共通するのは、我が子の生命・健康を守ろうとする思いであるが、置かれた状況は様々である。家族全員で避難し、地域社会に入っていく人もいれば、夫は福島に残り、妻と子どもは福島を離れ、その生活が少しずつ夫婦の関係にズレを生じさせ、離婚に至るというケースもある。
自主避難者は、強制避難者と比べ東電による賠償や行政による支援が薄く、経済的にも厳しい状況に置かれることも少なくないようだ。事故から時間が経つほどに、当人も年を重ねることになるので、転職や収入の確保がなかなか難しくなる。一方で子どもは成長するので教育費など支出は増えるため、家計に余裕はない。
各々が程度の差こそあれ苦しみを持ち、それを語ってくれるので、語りを聞く身としては「大変だよなあ」という理解は進む。

一方で、私としてはどうしても納得が出来ない語りもあった。
私自身は、現在の行政・東電の線引きがまったく見当違いのものだとは思っていないし、各種調査の結果として福島において統計的に有意な健康被害は今のところ確認されていない。年間積算線量も100ミリシーベルト以上になると有意に健康被害が出ることが科学的にも立証されているが、100ミリ未満のいわゆる低線量被曝となると健康被害を裏付ける科学的な根拠はまだない状態だ。もちろん、これは統計の話であって、だからといってその線量でその人に健康被害がまったく出ないということは言い切れない。ただ、私のリスク感覚としては、このレベルであれば許容範囲ではないかと思うのだ。

とはいえ、子どももいないアラサー男性のリスク許容量と小さな子どもを持つ女性のリスク許容量が一緒な訳はないし、一緒である必要もない。だから、スクリーンの中で語る彼女たちの放射線による健康被害を本気で心配する姿を一笑に付すことはできない。ただ、私としては彼女らの意見に心の底から納得し、共感はできないのだ。

だが、共感しなければならないのだろうか。
共感は大きな力となるし、一般に望ましいこととされる。しかし、これだけ考え方が多様化する中で逆立ちしたって共感できない事柄はままある。むしろ、大切なのは共感できなくとも理解をして、分断に至らないようにすることではないだろうか。そういう意味で、この映画は間違いなく私の理解の助けにはなってくれたのだ。

正直に言えば、私も自主避難者に対して「ワガママ」といった印象が一切なかった訳ではない。勝手に避難して、支援が打ち切られたら裁判起こして、支援を求め続ける"そういう人々"として捉え、冷めた目で見る自分は確かにいた。しかし、この程度の解像度では福島の今を考える際には、まったく意味がない。

トランプ現象以降「分断」という言葉がよく語られるが、福島においてはそのもっと前から「復興」とか「絆」という小ぎれいな外面に隠れて、分断が起こっていた。それは津波被災者かそうでないかといった東日本大震災(いや、すべての自然災害)被災地に共通する分断もあれば、先ほど述べた避難指示区域内か区域外かという分断、放射能リスクに対する考え方の違いによる分断、、、本当に様々な分断が顕在化してしまっていた。

この分断を乗り越えるには、相互理解しかないのだが、理解と共感を切り離して考えないと、いつまで経っても分かり合えないまま終わってしまう。結局、他人なのだから心の底から通じ合うなんてことを誰に対してでも出来る訳がないのだ。
ただ、それでも立場や考え方の違いを踏まえて「この人のこの考え方なら、こういう行動をするのはまったくおかしいことではない」と考えることが出来れば、ビジネスライクというか、とりあえずの付き合いは可能なはずだ。今、目指すべき分断をなくす方法というのは、こういうレベルのものではないだろうか。ありえない理想を目指すのではなく、現実的な半歩でも前に進むための努力をしたい。

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