あれは確か六度三分

実はまだわたし、あまり生きていなくて、
安易にたくさん話してしまうとどうにも不都合が起きそうなもので。

わたしの学生時代のこと、とだけ。

皆の中心というわけではないけれど 人に囲まれているのがよく似合って、ひとりでいても惨めさをつゆとも滲ませない人。それでいて
自身を全うするのにあたって、普通よりも少しだけ精神を削らせなくてはならないであろう、とても不器用そうな人。

そんなひとがいつも、わたしにだけ ミルクとバターと蜂蜜をとろっとろに溶かしたような目を向けていた。

これがわたしの自意識からくるものとはどうにも違うようで、初めてじっくりとかれと(単純な二人称単数としての、かれ。かれと)言葉を交わした時から、表情と紡ぐ言葉にこんなにも不調和な目をするひともいるのだなと思ったものだ。

だからといってかれはわたしに特に優しいわけではなく、だからといってつめたいわけではなく、わたしもそれを自然とすんなりと受け入れた。わたしの中では大変珍しいことだった。

わたしとかれの間の想像力の大きな溝は確かにあって、わたしにはかれの中の何が「そんなこと」をさせるのか どころか、それは自覚の内なのかまったくのただの自然なのかすら 汲むことはできなかった。

野暮で無粋なわたしに分かることと言えば、わたしとかれの対話がしっかりと交差したとき、確かに世界に2人きりになるということだけで。

かれはわたし以外にはこんなにも細分化されることも特になかったようで、異性から騒がれる性質というわけでもなかった。
かれもまたそれを正当だと思っていて、わたしは初めてある種の優越感を知ったものだ。

かれはわたしには魔性がある、と言ったことがあった。いつもの目にすこし意地の悪い口調だったが、ほめ言葉のようだった。
かれの審美眼はさほど有能では無いようで、わたしはすこし、このひとに期待を抱きすぎていたかもしれない、と密かに思った。
申し訳なく、それでいて愛しかった。


かれが今何をしているのかなんて 尋ねさえすればすぐでもわかることで、ましてやかれ自身を介さなくともかれの生活を覗き見できる世の中だが、(わたしはSNSの類はどうもかれの良さを殺している気がしてならないので、一刻も早くやめてしまえばいいのに、と思っている)
わたしとかれが寄り添うことはなんとなく自然ではないし、特にかれに必要とされていると感じたことも無いので、わたしは今のかれを知らない。

今になって思うのは、なまぬるいミルクとバターと蜂蜜でうすめた 何か を、野暮で無粋なわたしをいいことにこっそり流し込まれていたのではないか、ということぐらいだ。

#エッセイ #友人のはなし