「海馬万句合」第二回、題③オーストラリアのアーティスト、パトリシア・ピッチニーニの作品

参照: Patricia Piccinini's hyperrealist sculptures:       https://www.youtube.com/watch?v=Z86MSk317nA) 

 切り口がいろいろあったためか、よい句が多かった。題の動画、そこに紹介されたピッチニーニの作品から、投句者の多くは「家族」や「共同体」についての批評性を刺激されたようである。家族は川柳のモチーフとしてメジャーなもので面白い句もいくつも思いつく。その一方で、一般的な固定観念にもたれた作句になりがちである。親密さを湛えながらも種を越えた関係性を示唆するピッチニーニの作品は、そうした川柳の特質への批評を引き出すことにもなっている、というのは言い過ぎだろうか。また、「家族」や「共同体」のモチーフ、そして現代美術の表現は、テーマとしては「分かる/分からない」という川柳が常に向き合わざるをえない境界を前景化している。などと言いながら、よい句が多かった、というのは、それぞれの世界観をそれぞれの句が作り出していたということなので、実はまとめようがない。ので、一句一句の解釈に移る。

肉感を(とりっぷほっぷ)撒き散らす/翠川蚊

括弧の使い方と、その中のひらがな表記が効果的な句。「トリップホップ」はヒップホップの一つの発展形の音楽ジャンルということだが、ここではひらがなにされたこと、また括弧の前後の「肉感を~撒き散らす」の印象が浸透することによって独立した言葉になっている。発音とp音の跳ねる印象ははち切れそうな肉感を抑えながら、汗を飛び散らせているイメージ。題のピッチニーニの作品は静止した像であるが、だからこそ幻視された動きははげしく、豊かなのだろう。


参鶏湯が熱いうちに潰す村/竹井紫乙


熱い熱いスープ、参鶏湯だが、本場では夏に大汗をかきながら食べるのが正しいらしい。猫舌だからと言って冷めるのを待っているのでは駄目なのだ。完成したら即、丸鶏を潰して取り分けなければならない。というのは、この料理についてはあくまで普通のことなのだが、この句は「村」が「潰す」主体としてしてされることによって、とつぜん暗い暴力性を引きだしてくる。「町」でも「国」でもなく、暮らす人たちがみな顔を見知っているような「村」というのがポイントだろう。そこには個人の判断はない。参鶏湯は熱いうちに潰さなければならない。そういうものであるという以上に、それがこの場の掟であり、それを逸脱すれば「潰される」ことになるだろうから。


123とてつもない5678/今田健太郎


「4」があるべき位置に、代わりに「とてつもない」が入っていると読む。すると、欠けている、あるいは隠されている「4」にどのような意味があるのか、と問わざるを得ない。その意味の可能性は数限りなくあるのだが、ここでは句会という場の磁力にしたがって、他の句と同様に題から「家族」のイメージを引きだしてきたと仮定してみる。現代における標準的な核家族像の4人家族の「4」である。日本において家を探そうとすると、20世紀後半より4人家族の暮らしをデフォルトに想定してこの国の社会が設計されていることに気づく。家族あるいは共に暮らす人々のかたちは様々なのに、幻想としての「4」が肥大して現実世界を覆っている。すでにそうした定型的な暮らしは崩壊しているはずなのに、「とてつもない」はいまだに私たちの生活を縛っている。どうしたら「4」をひとつの単なる数字として取り戻せるのだろうか。


理解室ひとつの鍵もありません/城崎ララ


理科室は持ち出し厳禁の薬物もあるから、ドアにはもちろん鍵がついている。では、「理解室」はどうかと言えば、「ひとつの鍵も」ないと言う。では、この部屋には誰でもいつでも出入りしてよいかと言うとそうではない気がする。「理解室」は開けっ広げのようでいて、そこに入る手がかり=鍵がひとつもないのではないか。そこに入れば、「理解」に至れ、また誰でも入ってもよいという風情をしながら私たちを拒む。「掟」を求める者がその門の前で待ち続け、死の間際に「お前はいつでも入ることができた」と告げられる、カフカの短編「掟の門」を彷彿とさせる一句。


親子丼=きりひと讃歌=模型店/川合大祐


「親子丼」という料理名は残酷だ、という外国人の意見を聞き、驚くと同時になるほどなと思ったことがある。他の種を食べて生きるという生存条件にもともと一種のグロテスクさがあるのだが、親と子をわざわざ一緒にして食べる(とあえて意識させるネーミング)というのは確かにえげつない。そして、手塚治虫作品にも特有のグロテスクさがあり、種の壁を越えたり、人体を切り貼りしたり、そうした境界を越えることについての作家の偏愛がヒューマニズム的テーマを時に突き破っているように見える。この句では、そのような「親子丼」と手塚作品「きりひと讃歌」がイコールで結ばれ、最後にさらに「模型店」が等しいものとして示されるのだが、この最後の語だけはあいまいである。何の、どのような模型店なのか。おそらく、実際に入ってみないと確かめられないのだろうが、入ったら二度と出てこれない気もする。


赦してやるけどメタはもらってくよ/西脇祥貴


まず「メタ」だけを取り外して持ち歩くことができるだろうか。「メタ」が成立するためには、それに対応した通常領域での現象・情報が本来は必要なはずだ。ただし、「メタバース」やら何やらで、あたかも完全に別領域が成立するようにこの語(というか接頭辞)を用いる例も最近は多いので、そうした誤読の厚かましさを表現しているのかも知れない。題に即して読めば、いわゆる「現代美術」とは作品そのものよりも、「メタ」でのやり取りを主戦場にしているので、アーティストと鑑賞者のせめぎ合いの一場面を切り取った句なのかも。あえて通常は使われない「赦」の字を用いているところにも、意図を読まなければならないだろう。「~してやるけど」「~よ」という軽い言いまわしと、この字に齟齬があることで、居丈高な語り手の腰の高さが見えている。つまりは一人芝居ということだが、それは普通に「許す」「許される」相手をもつことができない状態から来る不安の表現でもあろう。


セックスの観覧席もあたたかい/水城鉄茶


「も」がよく効いている。と書きながら、だが本当にそうなのか、どういう意味でそう思ったのか、という疑いもすぐ生まれてくる。というのは、「フロア」に当たる「セックス」行為の当事者たちは、本当に「あたたかい」のだろうかと疑念が生じるから。性行為は家族幻想によってどこかで「あたたかい」質感を保っているが、それとは正反対の寒々とした欲望とその空振りの繰り返し、余剰としての行為でもある。特に「観覧席」が設けられているようなそれ、また家族関係というのは、どこか寒々しいではないか。とすると、この句の「も」は性行為についての様々な幻想を引き出しておいて、最終的には突き放す、おそらく周到に計算された効果を発揮するために選ばれているのだ。


人として生きる気はないウナギイヌ/西沢葉火


「ウナギイヌ」にとっては、寝耳に水の言葉だろう。「ウナギ」と「イヌ」の結合体で、人間的要素は入っていないはずなのだから、「人として生きる気はな」くても当たり前である。ただし、漫画『天才バカボン』に登場するウナギイヌは人の言葉を話し、警官やバカボンたちをつかみどころない会話で煙に巻く。ウナギだからつかみどころがないのは当然だし、犬だから人との付き合いが得意でも不思議はないのだが、でも、当たり前、当然、不思議はない、というのも、「ウナギ」と「イヌ」の交配が不可能な世界から私が言っているだけなので、ウナギイヌに「人として生きる気」があっても別にいい気がするのである。あれ、変なところに出ちゃったな・・・。・。


フトッタネズミハワタシノテヲミチビイテ、チイサナクシャミヲヒトツブコボシタ/藤井皐


導かれた手はいったい何処に導かれたのか。小さなくしゃみはどうして出たのか、本当にくしゃみだったのか。カタカナ表記であるがゆえに、バラバラと私たちに入り込んできて、ゆっくりと解像度が上がっていく世界は、しかし、肝心なところが丁寧に隠されて、〈太った〉や〈小さな〉といういわくありげな形容詞によって、ふんわりとカモフラージュされている。〈零した〉と最後、過去にすることで軽く読者を突き放して、これは〈私〉の物語であり、その断片であり、あなたにはその表面にしか触れられない、と宣言されている。


ここから秀句。


familyは代表的なオノマトペ/白水ま衣


「家族=family」が実は擬音・擬態語(オノマトペ)だったというのは、相当な発見だ。家族、家族、family、familyと世界中でやってきたわけであるが、それは調子のよい単なる音に過ぎなかったわけだ。とはいえ、「代表的な」のだから、そう気づいたからと言って簡単にこの「オノマトペ」から身を引き離すわけにはいかない。朝起きて、朝食を用意し、仕事に出かけ、と日々の暮らしをする中、私たちの周囲でこのオノマトペが響きつづける。それはいわゆる家族をもつものだけではなく、一人きりで生きようとする、生きざるをえない者たちにも聞こえつづけ、本人たちの口にもふいに昇ってきたりする。いっそ、すり減るまで繰り返す、というのも一方だが、それはそれで取り憑かれるのとどう違うか、というと、大して違わないのである。


神話のバックヤードに回る/ 嘔吐彗星


「神話」と「バックヤード」の落差と通底感が絶妙。「神話」は表向きであり、その張りぼての壁の向こうでは、最低賃金で休みなく動き回っている非正規雇用者がいるのかもしれない。下敷きにあるのは、尾崎放哉の自由律俳句「墓のうらに廻る」だろう。墓の裏に回った放哉が見つけたのは、ただの空虚だ。確固たる石塊の裏の何もないぽっかりとした空間。放哉の句から一世紀が経って、私たちの前にいつも立ちふさがるのは〈情報〉であり、〈価値〉という「神話」である。その裏に回っても空白には行きつかない。ただ寒々とした労働の光景がある。

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