「海馬万句合」第三回 題③「小町が行くぼくは一本の泡立つナイフ/石田柊馬」選評

今回の海馬万句合では、この題でもっとも自由な作句が見られたと思う。前回の鶴彬の句の場合もまたそうだった。川柳は何よりもまずは他の川柳との対話によって生まれるのである(ジャズが先行フレーズのアレンジによって成り立つように?)。これは川柳に関わらず文化的表現というもの一般にも言えることだが、とりわけ短詩、その中でもとりわけ川柳でそうである。

「小町が行くぼくは一本の泡立つナイフ」が石田柊馬の代表句であるかどうかは議論のあるところだ(たぶん違う)。ただ一句の評価の問題は、句歴の長いこの川柳作家のどの時点を参照するかでも大きく印象が変わるのだし、大きな問題ではない。それよりも、この句そのものに表現されたヘテロセクシャルな欲求の表現と、その表現の仕方(〈ナイフ≒男性器〉の露骨な比喩)、またそこに想定されているホモソーシャルな読みの場が、現在どのように受け取られるかのほうがはるかに重要だ。さまざまな世代の川柳を読んでいると、文体やテクニックについては実はさほど断絶を気にしなくてもよいと感じる。むしろ、時代による価値観の変遷、その一例として、性・ジェンダーをめぐる捉え方、倫理観の違いが、作品を読む・読めない、読む気になる・ならないを(川柳の場合は特に)決めていることが多いような気がするのである。

よって、対話としての川柳ジャンルの中で、今、この句の世界がどう転じられていくかに注目したい。98句から12句(そのうち、特選2句)を選んだ。

〈並選〉
ぼくたちはひとり切り裂きジャックたち
日本語のような日傘に目が泳ぐ
はしるからだ(背中に浮いている初稿)
I, Robot. My handcuffs ran away and got eaten by that dog.
モリブデン鋼の付け文 小町より
カリメロの巣に現代詩文庫なしわれらの詩刑
舌下にとろけるHuman Behavior
粘りつく夜霧を吐いておやすみなさい
ソープカッティング(もいっかい言って)ソープカッティング
チェックメイトはニトロの小瓶
〈特選〉
石田さん、おれは一顆のライムです
はるか茜にうだるマチズモ



ぼくたちはひとり切り裂きジャックたち

「切り裂きジャック (Jack the Ripper)」は19世紀末ロンドンを騒然とさせた実在の連続殺人鬼。売春婦をターゲットにした。題の「小町が行くぼくは一本の泡立つナイフ」には、露骨なまでの性的比喩(暗喩と呼ぶにはあまりも露骨な・・・)が入っており、ヘテロセクシャル男性の潜在的にもつ暴力性を嫌う読者もいるに違いない。さらに、小野小町は古川柳においてミソジニー(女性嫌悪)の対象となっていること(例えば、「そのわけも 言われず百夜 通へなり」―小野小町が「穴無し」だったとする下世話な噂話にのっとった句)が示すように、川柳ジャンルも歴史的に深くミソジニーと関わっている。「ぼくたち」の句はそうしたヘテロセクシャル男性的傾向を複数でぼかすかに見えて、そうした共同体への責任回避を「ひとり」と即座に切り落とす。題の句の単数の「ぼく」から複数の「ぼくたち」への転じは安易に見えてじつは鋭い。


日本語のような日傘に目が泳ぐ

題からするとこの「日傘」は明治や大正期の挿し絵に描かれるような「マドンナ」=「小町」がさす日傘だろう。「日本語のような」はかたちとしては明喩として示されているが、それがかえってこの句が徹底的に言葉、テクストの世界を展開していることを露わにしている。それを裏書きするのが、「日」「日」「目」という漢字のフォルムによる視覚的な遊びである。この句において「泳ぐ」「目」は、この句を読む私たちの目ということになろう。さて、「目が泳ぐ」とは、何か疚しいことがあって動揺し、その心の揺らぎが目に現れる事態である。私たちは何に動揺しているのだろう。


はしるからだ(背中に浮いている初稿)

題の句とは、強い自意識が共通している。ただし、自己や世界に対しての自意識の位置が大きく異なる。「一本の泡立つナイフ」は「ぼくは~」とあるように、即、語り手の主体であって、またそれが世界と直接に触れているようなひりひりした感覚が表現の肝である。一方、「はしるからだ」は一見、「小町が行く」に対応しているように見えて、この句の語りの主体が自身を見ているとも読める(後とつなげると後者の読みのほうが自然だろう)。語り手の視線は自分には見えないはずの「背中」に向けられており、さらにその背中に「初稿」(まだ不完全な言葉のかたまり)が「浮いている」。ここでは何重にも意識が剥離して浮遊しており、不完全なモンタージュのようにかろうじて一つの句の姿を保っている。



I, Robot. My handcuffs ran away and got eaten by that dog.

一人称「ぼく」にどのように対応するか、がこの題での作句におけるひとつの入り口だった。この句は英語の "I" を採用することでそこに決着をつけ、そのまますべて英語で展開していく。ただ十分に整った英語だが、"I, Robot" とあることで、言語‐意識‐主体の関係はあらかじめ疑わしいものとして設定されている。"My handcuff (私の手錠)"以下は明らかに嘘だと分かる嘘(アメリカでは定番の言い訳に、宿題をしてこなかった生徒が「宿題を犬に食べられました」というのがある。また、後半部分はマザーグースの引用でもありそうだ)。"I, Robot" はアイザック・アシモフの短編集(1950)のタイトルで、ロボットが守るべき3つのルール、「ロボット三原則」が発表された書として知られる。ルールから脱して、すぐに嘘と分かる嘘をつく、このロボットに意識はあるのか、主体はあるか。そしてこの問いがつながるは、そもそも私たちにある意識や主体とは何なのか、性的欲求も含めてわれわれの欲望も自動的なプログラムではないのか、というより深刻な問いである。。
* ロボット三原則
以下を参照のこと。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%9C%E3%83%83%E3%83%88%E5%B7%A5%E5%AD%A6%E4%B8%89%E5%8E%9F%E5%89%87


モリブデン鋼の付け文 小町より

ここまで選んだ句が題の「ぼく」の視点にあくまで立っていたのに対して、この句では「小町」のほうからメッセージが飛んでくる。「付け文」(=ラブレター)なのだから嬉しくなりそうなものだが、「モリブデン鋼」(ステンレスにレアメタルのモリブデンを加えて、強度や刃物にした場合の切れ味を高めた合成金属)で出来ているのだという。題の句が男性から女性へのほぼ一方的な欲望の発露に終わっていたのに対して、返ってきたこの「付け文」は読み解くのがかなり厄介、いやそもそも生半可な欲望をこめた視線はあっさりと跳ねつけられそうだ。男性から女性へと差し向けられた暴力(「一本の泡立つナイフ」)は一度どろどろに溶かされてかたちをなくした上で、強化された金属として男性に送り返される。さて、ここからどのような関係性が生れてゆくのだろうか。


カリメロの巣に現代詩文庫なしわれらの詩刑

「カリメロ」は1970年代にテレビ放映されたアニメのキャラクターである(元はイタリアのキャラクターであるとか、1990年代にリバイバル・アニメがあったとか、細かいところは検索してください)。頭に卵の殻をかぶった黒いひよこ(?)で、象徴的にいえば、成長を拒否している主体を表していると分析できる。「現代詩文庫」は現在でも新刊が手に入る、思潮社刊の自由詩のシリーズ本で、「現代詩」と呼ばれる先鋭的な詩の代表的作家たちを集めている。ここでは、第二次世界大戦後の『荒地』『ユリイカ』『現代詩手帖』などの詩グループ・詩誌を中心として生み出された濃厚な作者‐読者共同体のことを表しているととっておこう。そして、そうした作者‐読者共同体の不在が、即「われらの詩刑」であるという。かつて「詩」と呼ばれていたものを欠いたところに発生する詩(なのか?)に囚われているというところだろうか。それにしては、「われらの~」といった文体が戦後詩的表現そのものであるという矛盾があり、その矛盾こそがこの句が示す現代の詩表現のあり様の一断面なのだろう。

舌下にとろけるHuman Behavior

「舌下」で溶かすものといえば、まずは錠剤だろう。舌下錠は口腔粘膜から有効成分が直接浸透してゆくことで、服用から作用までの時間が短いという特徴がある。"human behavior"は「人間(の)行動」といった訳が当てられていることが多いが、英語での意味は、"the potential and expressed capacity for physical, mental, and social activity during the phases of human life." (Britannica、https://www.britannica.com/topic/human-behavior ) といった風で、より複雑で広い事象を指している。とりあえず、「人間が生きる様々な段階で起きる身体的・精神的・社会的活動に対する潜在的な、また顕在化した能力」となるが、まあ、よく分からないと言えば分からない。個人が生きる中で生じるあらゆる事象および事象の可能性、むりやり簡潔にしてしまうと、まあ、ひとりの生そのものということになってしまう。この句はそうした「生」そのものを口に放り込んで吸収してしまうのだという。ただ、その吸収した身体はまた "human behavior" の一部であって、つまるところはグルグル循環するより他はない。そうした循環こそがまさに "human behavior" であり・・・。


粘りつく夜霧を吐いておやすみなさい

題の句をそのまま受けとって、見送った人の視点から、その後の場面を想像していくとこのような発言につながなるだろう。「粘りつく夜霧」とは「一本の泡立つナイフ」から放出されるもの、と比喩表現のレベルで読みを留めておく。この句のポイントは句の後半の「おやすみなさい」という穏やかな受け止め方にある。「一本の泡立つナイフ」は日常のあらゆる場面で惹起されてしまうが、そこに含まれる暴力性がいつでもそのまま実現されるわけではない。「おやすみなさい」は "human behavoir" たる性的欲求があるのだということを受け止めたうえで、それを穏やかに鎮めている(そうしたことが起こるのもまた "human behavoir"だろう)。慰めであり、また、祈りでもあるように響く。


ソープカッティング(もいっかい言って)ソープカッティング

「ソープカッティング」は文字通り「石鹸を切ること」で、サイズをそろえるためにといった実際的な要請からではなく、ひたすら石鹸を切ることで心を落ち着かせる一種のヒーリング行為を指すらしい(インターネット上に多数の動画がアップされている)。題の「小町」句に露出した欲求は、別の観点からすれば解消したほうがよいストレスであるともとれ、些細に見える「ソープカッティング」のような解消テクニックも馬鹿に出来ない。「一本の泡立つナイフ」のとりあえず鎮め方として十分ありうるだろう。ただし「ソープ」の語に性的含意を読むこともでき、解消しつつまた欲望を生むという無限連鎖とも読める。あいだの「(もいっかい言って)」で断ち切られることでかえって反復される事態。日々の感情の横すべりの動きだけをとり出して、ありのままに見せたような一句。


チェックメイトはニトロの小瓶

詩とテロリズムを結びつけたのは、ヴァルター・ベンヤミンのボードレール論「ボードレールにおける第二帝政期のパリ」(1938) である。また、日本でも「われは知る、テロリストのかなしき心を」と歌った石川啄木が想起される。題「小町が行くぼくは一本の泡立つナイフ/石田柊馬」は、文芸がもつ暴力性への共感、あるいは憧れと無縁ではないだろう。むしろ純朴にそうした憧れを洩らしているところが表現としての分かりやすさであり、不安的さであり、また不安定がもたらす共感への誘いである。比べると、「チェックメイトはニトロの小瓶」は、熱狂と冷静の対極(これもまた、ボードレールについて指摘されていたと記憶するが)を凝縮し、七七のコンパクトな詩形に収めている。チェス盤という小さな空間で緻密に敵を追いつめていった最終局面に登場するのが、爆発物であるニトログリセリンという矛盾。ただし、この爆発物は扱い用によっては薬(強心剤)にもなるというのだから、小瓶に収めて盤上に置くのはまだ冷静さを保っているのか。いずれにせよ、私たちのキングは「チェックメイト」(=詰み)なのだから、あきらめてこの句がどう作用するかを眺めているより他はない。


ここから2句が特選。


石田さん、おれは一顆のライムです

前回の大賞句「真空の完全がある/鶴彬 /川合大祐」は、題とした句の作者である鶴彬をそのまま句の中に放り込んでしまうというアクロバットだったが、こちらもまた、題となった句の作者に直接語りかけるという無茶をしている(「石田さん」がすでにこの句に答えられないのが本当に残念である)。「ライム」はまずは果実の「ライム lime」であり、題の句の「ナイフ」と韻を踏みつつ対応しているのが上手い。また、「ライム」はヒップホップなどでいう「ライム」であり、まさに「韻」という意味も読みとれる。さらに、「ぼく」に対しての「おれ」と、この句は読み込めば読み込むほどに先行句と徹底的に対話しており、「石田さん」という語りかけが単なるギミックでないことがはっきりしてくる。果実として、言葉として、先行する言葉の世界に「おれ」を投げつけること。作句という行為を理想的に体現してみせた一句である。


はるか茜にうだるマチズモ

ここで題とした句「小町が行くぼくは一本の泡立つナイフ」にはヘテロセクシャル男性の欲求が表現されており、それを受け取る読者の側にホモソーシャルな読みの枠組みが期待されていることをくりかえし指摘してきた。別のかたちでとらえるなら、「マチズモ」(男性優位主義、「男らしさ」なるものを至上のものと考える態度)がそこに浸透しているのである。この句はこのことを端的に指摘する。
この句で、もう一方の中心要素となる「茜」はどうだろうか。「茜」とは意味を調べると、色(すこし暗めの赤)の名前であるとともに、その由来となった植物のアカネ(茜色は花の色ではなく、根から採れる染料の色)である。ただし、ここでは夕焼けの色としての茜色、そしてこの語が女性名、特に物語のヒロインの名前(特にアニメの?)に用いられることが多いことが読みの中心になる。
さて、「茜」と「マチズモ」という女性・男性的要素は、この句ではどのように配置されているだろうか。まず配置の中心になるのは句末におかれた「マチズモ」だろう。その「マチズモ」がう(茹)だって(熱気でグダグダになって)いる。その前の助詞「~に」は、その茹だっている理由を示すというのがいちばん分かりやすい読みで、先の男/女の対を合わせれば、魅力的な女性にあてられてクラクラしている男たちの姿(つまり、題の句と内容的にはほぼ同じ構図)がもっとも分かりやすい構図となる。
句語の順番とは逆に進んできたが、最後に「はるか」について考える。まずは「マチズモ」に対して「茜」が遠くにある、と読む。それで終わりとする読みもあるだろう。ただし、この「はるか」は「茜に」をはさんで「うだるマチズモ」にかかるとも読めなくはない。いや丁寧に読めば、「はるかな」とすぐ後にかかる形容であることを明確にしていない以上、この後の読みのほうが構文的には筋が通っている。そうとると、これまで読みの中心に置いてきた「マチズモ」こそが読み手の視点からは遠くにあるということになる。「茜にうだるはるかなるマチズモ」とすれば意味的に分かりやすくなるだろうか。
「はるか茜にうだるマチズモ」という全体を見直してみよう。「うだる」という強い動詞による形容によって、まずは「マチズモ」が句の中で重みをもつ句語として前景化される。ただし、「はるか」の語はこの「マチズモ」がすでに私たちからは遠い位置にある存在感のうすい要素であることを示している。またそのように把握すれば、「マチズモ」は「茜」によって左右される弱い存在であるということも見えてくる。意味として「茜にうだるはるかなるマチズモ」のように説明することもできるだろうが、それでは川柳とはならない。読みの過程で生じる句語の中での重点の移動こそが、時代の相をつかんだこの句の内実であろう。(すこし余計にもなる読みを加えておくと、「はるか」もまた女性名であり、「マチズモ」は二重に女性的(とされる)要素に引き回されている、とさらに展開することもできる。)
現在では剥き出しの「マチズモ」は一般に歓迎されない。ただしそれは、この語が表す傾向が消えたことを示しているのではなく、社会のあちらこちらに滞留して、新しい動きを押しとどめている。そうした滞留、文化の「凝り」をほぐす表現としてこの句を読んでおきたい。
参考図書:武田砂鉄『マチズモを削り取れ』集英社、2021年。


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