「海馬万句合」第二回 題①「星月夜」選評

 イメージ先行の題で、こういうタイプの題は川柳では意外と難しいのではないかと思う。ただ、「星月夜」は、星が明るくて月が煌々と照っているように感じるような夜、ということで、「月夜」が入っているのに「月」はないという、考えてみればとてもひねくれた言葉である。ただ、キレいなだけではない。その辺りをバネにできればよかったか。メジャーな文化的参照点としては、フィンセント・ファン・ゴッホの絵画「星月夜」があり、ここからのアプローチも多かった。全体としては、題との整合性よりは、題からの思い切った跳躍のほうを評価した。


☆☆☆闇☆☆闇☆☆☆/下城陽介

星は記号、そのあいだの闇は漢字で表記されている。これを「星星星闇星星闇星星星」と漢字だけ、あるいは「☆☆☆■☆☆■☆☆☆」と記号だけで表記することもできなくはないが、この二案ではやはり句にならないだろう。「☆」の記号の白地の多さと、「闇」の字画の多い混み入り具合が、絶妙の数でバランスよく配合されることで、一つの作品としての調和と緊張感を作っている。いや、わずかに「☆」の明度が「闇」の深さを上回るところに、題「星月夜」を感じさせるところが上手い。星月夜であっても実際の世界では、闇の量の方がはるかに多いのに違いない。それを光にあふれる場面のように描きだす想像力こそ私たちの面白いところで、この句はそうした想像力の不可思議さにふれている。

マヨボトル(口は月型)、神隠し。/森本頌

マヨネーズの容器の口は通常星型になっている(絞ったときの見栄えがいいから、だそうです)。それを「月型」と強弁することでフィクションの世界が立ち上がる。こうして月のイメージを想起させながら、「神隠し」と何かが隠されていることを示唆することで、闇と光を交差させている。しかし、よく考えてみると、「月型」とはどのような形だろうか。満月のまん丸か、半月の半円か、先の尖った三日月型か。それとも実際の月のようにそれらの形を移り変わっていくのか。括弧、読点・句点の配置によって実験句の印象を出しながら、575定型になっているのが面白い。特に、最後の句点「。」は句の出口をふさぐことで、上に書いたようなイメージの戯れに読者をとどまらせることに成功している。

大小の吹き矢を放つ如来像/成瀬悠

題が示すイメージをどのように他のイメージに転じて示すか。題の消化/昇華のひとつの方向だが、この句の場合、「星月夜」の空についてそれを真正面から試みている。輝かしい星々の輝きに宗教性を読み取って「如来像」を引きだし、そして、星々の個々の輝きをコミカルな「大小の吹き矢」の漫画的像に転じてみせる。ただし、この句の面白さはその二つの捩れた関係のイメージをつなぐ「放つ」という動詞にある。吹き矢をフウフウと吹いている如来の姿はコミカルながら、吹き矢とはいえ立派な武器なのだからやはり物騒とも言わねばなるまい。崇高さと滑稽さとそして「放つ」の動詞によって生じた動きの感覚、それらが一体となって、あり得ない世界の現象を、言葉の世界において実現してしまった。


塗る 塗る ダイアローグは滴って/太代祐一

まず句を読んでいると前半が「ぬるぬる」という触覚を伝えてくるような気がした。意味から考えると、絵の具を塗りつけるということだろうと推測する。題からゴッホの「星月夜」を想起した人は多かったと思う。ゴッホが繰り返し、絵の具を塗りつけ、こてこてに盛り上げていく様が見えるが、この句の世界は後半の「滴る」(また「塗る」にもある「さんずい」の印象)によって、単なる厚塗りを越えていく。ゴッホの「星月夜」は絵の具が固まることによってかろうじて絵画の姿を保っているが、画家がとらえよう、さらには観る人に伝えようとしたものは「滴る」にあるような流動性ではないのか。狂気に還元されがちな画家の絵がこれほど人気を博すのは、この句の「滴る」に引き出されたようなダイアローグを観る人とのあいだに成立させているからだろう。

(自分用)1:02 星月夜/翠川蚊

選句においては、他にないかたちの句だということを重視して残すことにした。その後で、「1:02」という時間指定(時間ととらない読みもあるかもしれないが)がどこから来るのかなあと考えた。いちばん見つけやすいレファレンスとして、『新世紀エヴァンゲリオン』に、碇シンジが「62秒でケリをつける」と言う有名なシーンがあるらしい(そこから様々な場面でこの「62秒」が使われるようになっているようだ)。このセリフが登場する挿話は「第9話 瞬間、心重ねて」ということで、「心重ねて」と「(自分用)」というところが反対のような響き合うような微妙な関係にある気がした。自閉のトピックこそもっとも共感を引くテーマという1990年代以降の状況を「(自分用)1:02」が表しているとして、そうなると「星月夜」が余分になりそう(逆にエヴァと「星月夜」はつき過ぎとも思う)だが、このぐらいのイメージの救済があったほうが安心して読めるということはある。

プルトップ開けるあたまは未接続/太代祐一

缶詰のプルトップをカチンと開けるときの感触。長い時間を耐えるように固く密封されていた空間があっさりと世界へ向けて開いてしまう、そのあっけなさ。そこから意識は自分の「あたま」へと移るのだが、この情報過多の時代においても人間の脳はあくまで頭蓋の中に封じられており、五感によって世界に接続されているようでもどこか「未接続」の領域を残している。だからといって、そこに精神の深みがあるという大層な話でもなく、開けてみれば缶詰程度の内容に過ぎないのだろうが、この句の「未接続」の句末の投げっぱなしには、他では得られないあっけらかんとした開放感がある。缶詰を見ると意味もなく開けてみたくなる(私だけ?)なのにはこのような理由があったのだ。


乾いている暇のない鎌のカーブ/竹井紫乙

星が煌々と光っている星月夜、そこには不在の月。この句の「鎌」はその不在の月(三日月)であり、同時に死神の鎌だろう。静かに降る星を見あげる人たちの視線の届かない場所で、「乾いている暇」もなく命を刈り取りつづけている死の鎌がある。「乾いている暇のない鎌」は意味であり説明であるが、「~のカーブ」は私たちには見えない鎌の描く弧を、その暗い光をイメージさせる。そこから前の「乾いている暇のない」に視線を戻すと、繰り返し、繰り返し、振り子時計のように、逃れようもない時間そのものとして運動をつづける死の姿が見える。


早まるなとマヨネーズのアティテュード/高澤聡美

マヨネーズの容器の口の星型。そこに「アティテュード」を、しかも「早まるな」という限定したメッセージを込めたそれを読みとる、のはずいぶん偏った見方である。しかし、そうした偏った見方を押し通す以上に、詩というもの、特に短詩というものの役割はない気もする。句にさらに分け入っていくと、「マヨネーズの」の部分を、「マヨネーズ的な」と読んで、作中人物の姿勢の表現として読み取るか、「マヨネーズ(容器)」そのものが「アティテュード」を示しているととってそれを受け取った立場からの表現とするか、二つに読みが分かれるようだ。私としては、後者の日常的な物質自体がメッセージを発しているという解釈をとりたい。他とは一線を画して、個性的な表現を続けてきた、キューピー・マヨネーズのCMの雰囲気(心意気?)も感じる。


ぱり んぷ せすと (ほし を ありがと)/翠川蚊

「パリンプセスト(palimpsest)」は羊皮紙。かつて紙が貴重品だった時代、書かれた文字を削り取って繰り返し使用された。というのは、もちろん本から得た知識で、どちらかというと、現代思想・哲学の文脈において、ジャック・デリダが〈言語はまっさらな状態から生じるのではなく、いつも痕跡から生じるもの〉といった風なことを説明するために持ち出した言葉としてのほうが馴染みのある人が多いだろう。この句は、半角の空白がところどころに空けられることによって、句の言葉自体だが削り切れなかった語の痕跡であるかのように見える。つまり、この句は残った字から偶然意味をもつフレーズが二つ生じたのであって、決して片言の感謝のメッセージではない(はずだ)。として、羊皮紙から目を離して、空を見上げると美しい星月夜、「ほしをありがとう」と呟きつつ、星空もまたパリンプセストかもしれないと思う(?)。

ここから秀句。

ここ 見てて ロバが立てなくなるシーン/翠川蚊

古い白黒映画をDVDで見直しているときに、隣でいっしょに見ている人に呟かれたセリフ、ということにしておく。「ロバが立てなくなる」場面で、しかし、何を伝えようというのだろうか。もっとも映画であれば、前後のつながりがあってこの場面に意味が生じるわけで、この箇所だけを見せられても、悲しいのか、おかしいのかも分からない。しかし、それを言うならば、実際にここに共有されているのは「ここ 見てて ロバが立てなくなるシーン」という言葉だけなので、「ここ 見てて」と指示する先には何もないのだ。その不在によって、ロバがそれぞれの読者の中でもつ意味内容が立ち上がってくる。重荷を担う家畜、哀れさと滑稽さの共存、という辺りを私は思い、悲喜こもごもといったドラマが伝える感情の核を味わうけれども、それが言葉のトリックの上でであるということもどこかに意識している。だが、そうしている内にいつか、こうした一場面をどこかで確かに見せられたという記憶を植え付けられないとも限らない。


もう一度点棒計算したかった/雨月茄子春

題から限りなく遠くに跳びながら、「点棒」の「点」の一字によって「星」を感じさせていると読んだ。独立した句として読んでも、「役満をあがりたい」や「麻雀がしたい」ではなく、「点棒計算」に限定したところにうまさ、軽さがあって、唸らされる。死の間際に(いや、麻雀に負けた後、というありふれたシチューエーションかも)星月夜の空を眺めながら、頭に浮かぶ思いが「もう一度点棒計算したかった」だというのも、じゅうぶんあり得るシチュエーションな気がする。静かに渦を巻く空の星々に、ジャラジャラとかき回される点棒の動きと、チープなあのカチャカチャしたノイズを合わせるのも、そのチープさにおいてどこか粋である気がする。

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