「海馬万句合」第三回 題④「界」選評(川合大祐)

「界」選評

               川合大祐

 兼題「界」と聞いて、ひとは何を想像するだろうか。
「世界」を連想するひとはおそらく多数を占めるだろうと思う。だが、「界」は世界では無い。世を境界として区切る、まさにその「区切り」が「界」ひと文字としての本義である。
 そこのみに拘ったわけではないが、基本「境界」をあらわしている句を主に選んだ。これは何かと何かの境目こそが短詩型のうまれる場所であり、読み手にも書き手にもスリリングであると思われるからだ。
 あくまでわたしの偏見に満ちた選であり、わたしが選ばなかった句でも佳句はたくさんあった。選者という特権を甘受してもてあそんだこと、まずは謝罪したい。と同時に川柳の「選」という制度に対していくぶんかの考察を願えれば、図々しくもこれ以上の喜びは無い。わたしが言えた口では無いが、つねに「川柳」の「構造」について考えてほしいのだ。川柳の「制度」について考えることは川柳の句の「構造」を考えることにつながる(逆もまた真として)と信じるのだから。
 駄言はこれくらいにして入選句を見てゆこう。

 

 秋の単騎待ち@ふぢはらのかまたり界
              /西脇祥貴

 @を使った句と言えば、主催者湊圭伍氏に次のような先例がある。

  1 名前:名無しさん@手と足をもいだ丸太にして返し
  (湊圭伍『そら耳のつづきを』より)

 この二つの句は類想句だろうか。湊句はあくまで匿名掲示板のパロディーに徹することにより、川柳の持つ不気味さを「川柳」という鉤括弧に捕えることに成功した。この場合の@は記号が記号で無くなる瞬間——掲示板の表現とは本来そういった瞬間をとらえるものであった——の意味を持たないマークをさらに戯画化したものであった。
 対して、「秋の単騎待ち」の句はどうか。この場合、@は@の本来的な意味として機能している。
 @がat、「そこに於いて」をあらわす(「at the rate of」はとりあえず置いておく)として、「@ふぢはらのかまたり界」とは何か。少し回り道をして(しかし実際的には順序通りなのだが)見てみよう。
「秋の単騎待ち」とあった。「単騎待ち」とは麻雀の上がり牌がひとつしかない状態である。このひとつしかない、という点が鍵になってくる。直後につづく「ふぢはらのかまたり界」というもののなかから、ひとつしかないものが選ばれる。ここの接続が@である。
 @にすることによって、「単騎待ち」の単独性と、「ふぢはらのかまたり界」の混沌があきらかになった。
「ふぢはらのかまたり界」とは「いくつもある何か」と読むことができる。そこに在るのは「ふぢはらのかまたり1」「ふぢはらのかまたり2」……と永遠の複数を想像させることが可能だ。そしてこの「複数」を複数たらしめているのが「界」というキーワードに他ならない。
「界」をここに於いて境界線とする、いくつもの選択肢を可能にする、潜在力として捉えられるよう、一句が構成されている。この句を選んだ理由である。

 

 御託はJ・Bの金歯を引っこ抜いてから言え
               /湊圭伍

「J・B」とはおそらくジェームス・ブラウン。「歯医者で肺がんが見つかった」というエピソードもこの句と対応している。
 しかし、ここで考えたいのは「J・B」への根源的な問いである。「なぜJ・Bをジェームス・ブラウンと認識できるのか?」ということへの問い、と言い換えてもよい。
「J・B」という略称が世界に流通しているから、という理由がまずある。だがそれに加えて、ここでわれわれはひとつの選択をしていることになる。
「J・B」は「ジャパニーズ・ビートジェネレーション」かもしれないし、「ジャニーズ・ボーイ」であるかもしれないし、「ジャンジャンジャガイモ・バター焼き」の可能性だってある。
 しかしその単語の組み合わせの中から、われわれはひとつの「ジェームス・ブラウン」を選ぶ。先ほど述べた歯医者のエピソードも影響しているかもしれないし、句全体を流れる文体が「J・B」が「ジェームス・ブラウン」である、と読ましめる作用を持っているからかもしれない。
 ここで、先の「秋の単騎待ち」の句と同じように、混沌のなかからあるひとつを選ぶ、という構造を読み取ることは可能だろうか。然り、と言っておく。「J・B」を「ジェームス・ブラウン」と読ませるしくみ、あるいはその逆に「ジェームス・ブラウン」では無いと読ませるしくみ、これはある「制度」と呼んでもいいし、「構造」とも言えるだろうし、そこに無数の「境界」によって分けられた可能性をも読み取れるはずだ。
 なお、付け加えておくがこの句に関してひと目で作者がわかった。これは主催者に阿る、と言った話では無論なく、「文体」を固有のものとして持っているとそれだけで強みになる、という事実である。

  

 通り魔に名前をつけられちゃったから
            /おかもとかも

  この句に関しても、「名前をつけられちゃった」という行為がある。「名前をつける」という行為は、混沌のなかからひとつの秩序を抉り出す作業である。先の二句と共通した「境界線」の引き方がここに於いてもあきらになっている。
 この句の場合は、「名前をつける」のが「通り魔」であるということ、「たから」という理由になっていること、この二点が目を引いた。
「通り魔」というのはひとつのラベリングである。しかしこのラベルは本質的なラベルでは無い。「萩本欽一(例えばとして名前を引いた)」から「通り魔」へと呼称が変質するときは、「名」の階層が変わっているはずだ。「通り魔」を「通り魔」として存在させる次元において、はじめて「通り魔」は名称として流通する。この、日常生活とずれた名称こそ、「たから」の「から」と対応しているのではないか。
「通り魔」というものがまた混沌のなかから引き出されてきたひとつの可能性である。ならば、「から」という理由づけ——この場合、結果を持たない理由づけに対して、無数の可能性を含んでいることになる。
 ここにおいて、「川柳」が「ひとつの川柳」として成立する境界をあらわしているように見受けられた。 

 

 掛け声が似ている川に出てみたり
              /城崎ララ

「掛け声が似ている川」で切るのか「掛け声が似ている/川に出てみたり」と切るのかで意味は違ってくるようにみえる。
 まずここでは、後者の解釈でみてみよう。「掛け声が似ている」と「川に出てみたり」との間には断裂線がある。この線を境界線とみることはまず可能だ。一句のなかにふたつの次元が、境界をはさんで存在している。
 このはさむものが「川」である点も示唆的だ。「川」というものが意味的にある境界であること、それは日常の川を思い浮かべてもらえれば良い。「彼岸/此岸」という対比を想起してもらっても良い。
 その「川」に「出てみたり」と言う。これもたくさんある選択肢のなかから、選ばれたひとつの行為である。ここに「境界」のシステムが適用されていることは今までみた句と同様になる。
「掛け声が似ている」についても、「似ている」とはひとつの分類である。混沌のなかの秩序としての——境界線が引かれた次元としての「似ている」という表明。
 ならば、「川」を結節点として、「掛け声が似ている川に出てみたり」はひとつの次元の、分裂することによって一層ひとつの意味性をつながれている「句」ではないか。であれば、「掛け声が似ている川」と「掛け声が似ている/川に出てみたり」という切れは、両者とも同じところにたどり着くのではないか?
「掛け声が似ている/川に出てみたり」という分裂が、構造によってひとつに収斂する、あるいは収斂をこばむ、この運動体がじつにスリリングな句作であったと思う。

 

 脱いできた毛皮とここですれ違う
              /城崎ララ

 「ここ」というのは厄介な代物である。特に川柳においては、「ここ」に限らず「あの」「その」と言った限定が忌避される傾向にある。「あの日」と言ったって「あの日」に感動できるのは作者本人だけでしょ、というわけだ。
 だが、この句において「ここ」は何かの限定だろうか。なにか特別な思いが込められた場所だろうか。前者の問いに対しては是、後者に対しては否、と答えたい。
 ここの——まさにここの「ここ」に関しては、ただ限定だけがある。
「脱いできた毛皮と」「すれ違う」場所としての「ここ」。この「ここ」をめぐる文脈には、ひとつの意味を成立させそうでさせない、せめぎ合いがある。意味と意味との拮抗と呼べるかもしれない。そのせめぎ合いのなかで生まれた空白こそ「ここ」ではないだろうか。
 であればそれは、ただ「境界線」のみが引かれた空間——物理空間であれ言語空間であれ——に他ならない。「脱いできた毛皮と」「すれ違う」が成す境界。それこそがこの「ここ」の本質であると思うし、句としてのスペクタクルも「ここ」にあると思うのだ。

 

 みてきてよ かわいい国のお湯加減
              /高澤聡美

 さまざまな境界線が引かれている。
「みてきてよ/かわいい国のお湯加減」のあいだに置かれた一字空け。これがまず第一の境界である。
 ここにおいて空白が強調されているということは、純粋に「かわいい国のお湯加減をみてきてほしい」という願望を述べたものではなく、「みてきてよ」と「かわいい国の〜」の合間に切断/飛躍があるということである。
「みてきてよ」が何を「みて」きてほしいのか、ここでは宙吊りにされたままだ。同時に「かわいい国の〜」というフレーズも、独立性をもって浮かんでいる。目的が空白であること。フレーズが空白のなかに浮かんでいるということ。これは、「境界」そのものがあらわになっていることではないか。
 この境目、ということは「かわいい国」に関しても言える。「かわいい国」があるということは、「かわいくない国」があるということである。「かわいい」とは「かわいくない」群れのなかから選択され、相対的に存在する状態だ。ここに「境界」あるいは「境界線」の概念を持ち込むことはごく自然な成り行きと思われる。
「お湯加減」に贅言を費やすまでもなく、「お湯」というものが「水」という状態からの切り離し、ひとつの「境界」であることは自明だ。
 これらの「境界」の輪舞が共存している、この事実こそが、「界」の「界」たる所以であったように感じられた。
 なお、「国」という単語はよく「句に」と誤変換される。このあたりの「境界」を考えてみるのも一手かもしれない。

 

 泣かないでバブルスくんをつかまえて
            /まつりぺきん

 この句も先の句と同様に大きな境界線を有している。
「泣かないで/バブルスくんをつかまえて」のあいだには断裂がある。「泣かないで」と呼びかけている主体と、「バブルスくんをつかまえて」と要望している主体のふたつには、明らかなベクトルの違いが見受けられるのだ。「泣かないで」という慰めと、「つかまえて」という要求のあいだには、まるで方向性と力が違っている。
 この二つが「〜ないで」「〜えて」という願望によってひとつに接続されるとき、境界もまた発生する。境界とは接していなければ発しないものだからだ。これがばらばらであったとしたら、そこに境界は無い。「バブル」という「もの」が泡の皮膜を引き出してくるのは必然であろう。
 この「バブルスくん」が「マイケル・ジャクソンのパートナー(とさえ見做されていた)の猿であった」と認識してしまう、ということに関しては、先の「J・B」のところで論じたのと同じ問題を共有している。
「マイケル・ジャクソン」「ネバーランド」という言葉に背負わされたイメージの過剰性。ここに、「バブルスくん」を「バブルスくん」から剔出する「制度/構造」が内蔵されている。その「制度/構造」が「境界」の謂であったことは、繰り返しになるが言及しておく。

 

 視界一面さだまさし
               /小沢史

 ここにおいて展開されるのは、圧倒的な視覚的イメージである。
 目の前の世界がすべて「さだまさし」の顔(ここはやはり全身像ではなく顔面だろう)によって覆われる。これは純粋に、おもしろい。凄く嫌な世界ではあるが。だからたぶん、この句に多言は要しまい。
 付け加えるなら、「さだまさし」という固有名詞は、「他の誰でも無いさだまさし」という固有性を呼び出す。「J・B」「バブルスくん」もそうであったように、それは数ある要素のなかからひとつを選ぶ、という能動的な行為である。これが「世界に境界線を引く」という行為であり、固有名詞をつかった句のダイナミズムであると考える。
「さだまさし」の選択は見事であったし、「これ以外にない」と思わせる適応性は、まさに「境界」のぎりぎりに立つ行為であったと思うのだ。


特選

 どらやきのかいわいなかだししちゅえいしょん
               /藤井皐

 いっけんして意味を掴むことができない、しかし内部ではもの凄いことがおきていることだけはわかる、という第一印象を持たせる句。いやもしかしたら句でさえないのかもしれない、とまで思わせる作品。
 しかしわたしたちはこれを「川柳」として認識する。この場が「川柳」を発表する場であったから、という理由が大きい。わたしたちはまずこれが川柳である、という前提のもとにこの句を視る。——そして「これは川柳では無い」とさえ思う。これが「制度」でなくてなんであろうか。
 まずこの「どらやきのかいわい〜」と全部ひらがなで書かれた文章を、なぜ川柳と思うのか。かろうじて575に近いから? 確かにその理由はあるだろう。だが根源的には、これが「万句合」に出されたテクストである、という認識を持ってしまっているからでは無いか。
 これは鋭い匕首を突きつけてくる。わたしは何をもって「川柳」と認識するのか? という問いかけ、さらには「万句合」という「制度」の脱構築化までこの一句——措置として一句としておく——は突きつけてくるのだ。
 わたしは余りにもこの句の「内容」に踏み込んでいないかもしれない。しかし、「内容」に踏み込むとはどういうことであったか? 「解釈」あるいは「評」とはどういうことであったか? という冷徹な問いを、この句によってなされているのだ。それは、この世に「川柳」が在らしめられるシステムにまで踏み込んだ問いであり、この世に「川柳である/川柳でない」という境界線を引く試みであると信ずる。
 この「世界」に「境界線」を引く。
 この試みに挑んで、奏功した「川柳」は数少ない。この「句」はその数少ない例外に入ると、わたしには思われる。この「評」をあなたが読んでどう思われるか、というところまで、この「一句」の射程は及んでいるのだ。



 ニラ あらゆる交点にいてますわ
              /西脇祥貴

 いろいろとお騒がせしてしまった句。
 顛末については主催者の説明を読んでほしいが、ざっくり言うと作者は本来、

  バニラ あらゆる交点にいてますわ

 と投句したのだった。作者からの指摘があり、主催者とわたしを含めて協議した結果、「ニラ」のまま特選句として取ることになった。
「バニラ」ではわたしは取っていなかった思うからだ。このあたりの選者としてのエゴイズムはお許し願いたい。
 では、「ニラ」のどこが良かったのか。
 まず、「ニラ」とした場合、575にはならない。分けるとしたら上2中9下5になるだろうか。
 この独特のリズム感が、なんとも言えず爽快だったのだ。「ニラ」で溜めておき「あらゆる交点に」で一気に噴出させ、「いてますわ」で流す。
 こういった一連のリズム感が、圧倒的に迫ってきた。575を外した破調で、ここまでの律を有しているものは、そう滅多にお目にかかれるものではない。
 ここにおいても、わたしは境界を見た。リズムそのものが、境界線として躍動している。まさに詩歌のリズムとしての理想型を見てしまったのだった。
 内容もよい。「あらゆる交点」という抽象に対して「ニラ」という物質性の濃い物質。それも「いてますわ」と西日本の方言で流す、この配列は実に見事であった。
 ……ただ、この「ニラ」が本来「バニラ」であった、ということは今後わたしたちが考えなければならない問題を孕む。
 作品はどこまで作者のものなのか? そもそも作者とはどこまで作品にかかわれるものなのか?
 難しい問いである。前の「どらやきのかいわい」の句と同様、「川柳」という「制度/構造」への問いかけをされていると言っても良い。
 ハプニングで「ニラ」になってしまった「バニラ」。「バニラ」でも確かに良い句である。だがこの際それは本質的な問題ではなく、「ニラ」にどうしようもなく魅力を感じてしまい、それが瑕疵から生まれた鬼子であったとき、わたしはどうしたらよかったのか?
 これは、「倫理」の問題だろうか? それとも作品は読者の読みによって生まれる、というテクスト論上の問題だろうか?(『テクストはまちがわない』という書名にもなった命題を想起せよ)。
 おそらくどちらでもないし、どちらでもあるのだろう。テクストを読みによって織りなすとき、人は倫理を要求されるのだ。それは真善美を求めよとか、そういったことを言いたいのでは無論ない。
「迷う」ことだと思う。
 どうしたらいいのかわからない。その立場に読者としての自分を置くこと。それが「選者」という立場ならなおさらのことである。
 要は、読者としての万能感を捨てること。この一点に尽きるのではないだろうか。不測の事態で、読者はテクストを放棄することが求められている。そのときに、「どうしたらいいのかわからない」ととことんまで迷うこと。
 これ以上の倫理は、いまのわたしには(申し訳ないことに)思いつけない。
 今回、「ニラ」の句をわたしは称揚した。だがこの称揚はかえって本来の作者を傷つけているかも知れず、その罪悪感は切に感じている。
 ただ、わたしは「ニラ」を選ばざるを得なかった。しかしそれでもこれでよかったどうかわからない。この迷う、ことこそ倫理ではなかったか、と不遜にも思う。
 西脇祥貴氏に、非礼を詫びたい。
 と同時に、想起をめぐらさずにはいられない。「ニラ」が「バニラ」であったならば実際にはどうだったのか。さらに言えば「レバニラ」ではどうだったのか。これが傲岸であると知りつつも。
 何も答えは出ない。ただ、「答えが出ない」問いの句が発せられた、ということを、敢えて幸とするべきなのだと思う。繰り返す、答えは出ていない。それが川柳である/ないという境界を、確かにわたしたちは踏みしめている。
 

 以上をもって選評としたい。なお、「川合大祐賞」は「どらやきのかいわいなかだししちゅえいしょん」の藤井皐氏にお贈りしたく思う。「どらやき」句において「万句合」あるいは「川柳」というものの「制度/構造」を撃ったことへの賞賛である。お受け取り願えれば嬉しい。
 なお、ハプニングとは言え、おなじく「川柳」の構造を衝いた「ニラ」の句の西脇祥貴氏には、川合から個人的に何か差し上げたいと考えている。これは湊圭伍氏とは別に、純粋に川合からの気持ちと考えていただければ幸いに思う。
 最後に。特選入選、それ以外も含めてみな素晴らしかった。川合の非才と曲解をご寛恕願いたい。失礼、平に謝罪しつつ、筆を擱く。

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