「海馬万句合」第二回 題④「おれ」選評(西脇祥貴)

はじめに


こんにちは。こんばんは。西脇です。いつもありがとうございます。
この度は海馬万句合第2回へのご投句、あるいは投句されてなくても、この選評を覗いてくださって、ありがとうございます。
……いつにも増して神妙じゃんって?
そりゃ、そうもなりますよ。なんたって投句者27名、この「おれ」の題だけでも111句が目の前にずらー、ですよ、.xlsで。どうしたって選者にしていただいた以上やったるで感出さなきゃと思って、「こっちも真剣やで!!!!!」なんてツイートしたりもしたけれど、私はおののいています。

何度も言います。おののかせてくださって、みなさん本当にありがとうございます。

つってもさすがに、おのののかされはしなかったですけどね! っは!!!!!!!
……いい加減にしよう。それでは以下、選評らしくお送りします。


題について


改めまして今回の題、「おれ」。

海馬さんから、「第2回の海馬万句合で選者をやってみませんか? 題も決めてねー」という重量級のお誘いを軽快にいただいたとき、ぱっと思いついたのが「おれ」でした。
そもそも今回、選者のお誘いをいただいたきっかけは、拙句

川を見てたらなにもかもおれだった/西脇祥貴

が、前回海馬万句合の大賞句だったからです。
おかげであの句と、連作風にして同時に出した9句はなにか、川柳やっていっていいかもと思わせてくれた恩人(恩句?)のように思えているのですが、このときの「おれ」がどうにも、自分で出した語でないような気がしていたんです。

字数埋めで入れた覚えもなければ、ねらって使おうとしたわけでもない。ただあの句のかたちのまま、自分ちのそばの橋の上から引っこ抜いたような句。もっといえば、あとの9句もまとめて引き連れてきた感覚さえある句。……なーすてわりゃこげな句、引っこにぃて来れたんだべな。。。そしてなんでそんな句の中に、川柳としてはどうにもいろいろなものを孕みすぎている「おれ」なる語が含まれていたのか……。
ビギナーズラックと言えばそれまででしょうが、改めてこの「おれ」を考えてみたい。
それには句会の場がいいんじゃないかと思い、今回題にしてみた次第です。

一人称おれ。

川合大祐さんの川柳講座『世界がはじまる十七秒前の川柳入門』第3回では「ぼく」を取り上げ、一人称を「ぼく」とするとき、そこにさまざまな意味付けが後から加わってくることを解説しておられました。
おそらく「おれ」もしかり。一聴にじむ男性性。その裏に何がある。「おれ」といいたくなる時とは? だれに向かって言うのか。言うとどんな気持ちになるのか、それがどういう支えになるのか。それが支えてきたものって。そうして聞こえてくることって……。
ぐるぐるしますね。それでもなお「おれ」を思って川柳するとき、みなさんどうされるのかなあ。そんな期待を込めた題でした。


総評

で募集してみたところ、あッー!!! ということが起きました。
句中の「おれ」なら=myselfだったわけですが、単に「おれ」の字だけ出したので、さまざまなore音を使った句が集まって来ました。折れとか、萎れ(し・おれ)とか、au lait、とか……。
なんたるひねく、いやいや、なんたる頭のやわらかいみなさま。それでこそ柳人っすわと開き直って選び始めてみると、じつはぜんっぜん「おれ」関係なさそうな句が、さらにあちこちに潜んでおり。なんのことはない、ひねくれジャングルでした。真剣なこちらの脇腹はぶすぶすぶすぶす刺され、しまいにゃ穴だらけでしたよ、とご報告まで。
でもこうして評に至ってみると、myselfに限定しなくてよかったなと思いました。宣伝の鬼英語ver.ではmyselfって書いちゃいましたけど、ひらがな二字、しかも各自近かれ遠かれ付き合いのある「おれ」ということで、ほどよく深めつつ飛躍する句が集まっていた印象です。ぜんっぜん関係なさそうな句の中にさえ、これはひょっとして……!? と思わせてくれるものがあったから、不思議でした。

……いい題だった、ということでよろしいですか?

満場一致のご賛同をいただいたところで、それではいよいよ、句を見ていきましょう。


注:西脇の評、長いです。お時間体力よろしいときに、少しずつご覧ください。


各句評


二十票差で吾輩は猫である/中山奈々

まずは何度も味わっていただきたい。……どうです、この破壊力。これこそがごたく抜きの破壊というものだ。と、他人さまの句なのにここまで言ってしまいたくなるいさぎよさ。やり取り以前にぶっ壊しに来るスピード、そして質量。セナのトップスピードで突っ込んでくる逸ノ城関のような一句です。子ども(、つまりぼくらですね)が大好きなやつ。よーするにさいきょー。
「おれ」→「吾輩」→超絶キラーフレーズ「吾輩は猫である」まではたどり着くでしょう。でもたいがいの人は、ここで恐れをなすはずです。大ネタ使いには技倆が必要ですもん。ましてこんな、近代日本文学を代表する、それこそ読んでない人でさえ知っているようなフレーズを前に、じゃこれでやってみよう、って普通はならない。よほどの勝算がない限りは。
そして万に一つこれでやるとしたら、勝算は意外に軽々やって来る。それを知っている人にしかつかめない句です。試しにやってみてください、よく分かると思います。そしてできねえ~、ってなってから、もう一度この句見てみて。……言葉がないでしょ?
何の選挙か、とか、吾輩→おれは猫なのか、いや投票の結果そうなったのならもとは違うのか、とか、そういう追及のいっさいが徒労ッ! 徒労徒労徒労徒労徒労徒労徒労徒労徒労徒労徒労徒労、徒労ォォォォォォォォォォォォオオオオオオウッッッ!!!!! ってやられる。で、あとは笑っちゃうほかない。これぞ川柳、これぞロケンロール。傑作です。

空港におれドラえもん、性別おれ/榊陽子

そしてもひとつロケンロール。「おれ」→一人称→「ぼく」→「ぼくドラえもん」から「おれ」へ逆噴射、まさかの本家越えキラーフレーズ「おれドラえもん」、爆誕。なにこのオラオラ青だぬき。オラつき出した途端、一気に四次元ポケットの中身が物騒に思え、しかも空港にいるあたりさらに物騒。なに、なんの取引??? 川柳とドラえもんはなにやら相性がいいようですが(例:ドラえもんの青を探しにゆきませんか/石田柊馬さん、どらえもんの青 われわれはまけるかもしれない/柳本々々さん、など)、この句は一人称「おれ」のコンテクストでドラえもんを飲み込んでしまった、素朴に暴力的な二次創作句となっています。
ただこの句を、勢いだけでとらえるのはあまりにもったいない。「ぼくドラえもん」が「おれドラえもん」に変わるときの、その微妙をこそ押さえておきたい。誕生以来半世紀近く、ずっと「ぼく」で通すことで積み上げられ(積み上げさせられ?)てきたパブリックイメージを、このわずかな変化が一瞬でぶちこわす、そのエネルギー。みんな知ってるキャラクターが、エネルギーもそのまま知らないだれかに変質する、そのこと自体のエネルギー。そんな「おれドラえもん」がいる場所として、空港=外へ向かう場所、外から来る場所ほど最適な場所はほかに思いつきません。
ここまで押さえることで、さらなるパンチライン「性別おれ」の力をより感じられるはず。ただでさえ不可解なモノと化してしまった「おれドラえもん」についての、たったひとつの説明が「性別おれ」……たったひとつの説明が不可解を上塗りし、直後この句はぶつ切れます(読点以前・以後の文字数の多少が、ぶつ切れ感を増しています)。しかし……どうですか、「性別おれ」。すさまじくないですか。ここまでこんなに検証してきたことばの流れすべてを、たった四字で、はるか後ろに吹き飛ばしてしまう。この句において「おれ」はとうとう、性別を上書きしてしまった。性の別を、なきものにしてしまった。いちばんみなぎる一人称。前へ、外へと、字余りになるほどほとばしる「おれ」。ひとつの高らかな宣言であるとも読めましょう。ただし、そんな高尚さはいっさい匂わせない態度で。この態度が川柳だとぼくは思います。ことばの組み替えの火花だけで燃やし足りないものを燃やし尽くす、そのために必要なのが、この態度です。
それにしても、かようにキラーフレーズ×パンチラインでできた特盛り句なのにすんなり読めるのは、なにをおいてもスーパースター・ドラえもんの威光でしょう。その威光もここまで使いたおされたら、F先生としても本望なのではないでしょうか。


お(れおれ((お[れおれ〈お〉れおれ]お))れおれ)お/川合大祐

文字通り崩壊。ここに至って題「おれ」は、完全に崩壊いたしました。ありがとうございました。お帰りはあちらからどうぞ…………いやいやいや、逃げちゃいかん。逃げたくなるけどこれが本当、これこそ容赦ない「おれ」の暴露なんですから。
題の性質上、こういう句、約束事を解体した句は、絶対出てくるだろうと思ってはいました。自我の本質を思えばこそ、いちいちことばで表しているのでは追いつかないモノが核にあるのはたしかですし、それをみなさんがどうやって彫り出すのかを楽しみにしていたわけですから。で、投句がそろってみると、なんとこういう句、この句だけでした。基本、選評上で作者に触れるのはよそうと思っていたのですが、川合さんには触れざるを得ないでしょう。こういう取り組み方で川合さんめかずに済んで、かつ独自の立ち方ができるなんて現状まず不可能です。まさに川合さんの独壇場、そしてその突き詰まった一点にあるような句です。ある種、川柳そのものと言ってもいいかも。
すごみに耐えて、どうにか読んでみます。まず音数、ばっちり十七音。定型の恩寵は句全体にいきわたって、強度の底上げにつながっています。異形でありながら、伝統の強さも利用している。それがこの句を見て圧倒されこそすれ、ゲテモノと思わせないポイントでしょう。
そして十七音のおかげで、全体がシンメトリーになっているうつくしさ。〈 〉で囲まれた「お」を中心に左右対称に音が広がっているさまは、異形の最たるものである上級天使の姿にも似ています。天使、上位になってくると、目玉だらけとかいよいよ化け物じみてきますし。おの字が目玉、れの字がからまる蔦、あるいは神経や血管のようにも見えてきますね(→のツイートに、聖書に忠実に再現してみた天使の姿が貼られています。こわいから無理しないで。
https://twitter.com/lorybae_/status/1492233250558861317?s=20&t=-8_5a7mj9EaW95cm
0ddDHA)。
さらに多様な括弧の使い方。このおかげで全体が因数分解のような、数学的な文脈をにおわせます。エモなんだけどエモすぎないための、冷静さを与える括弧群。しかも単一で使われるばかりでなく、(())のように重ねられ、効果線のようなはたらきをしているところもある。そりゃそうですよね、近~現代科学の書記法で解明できるおれなら、とっくに解き明かされているはず。その範疇にないやり方でないと、記述されえない「おれ」のはずだ。さあここに、「おれ」は暴かれました。あとはぼくらがこれを、どうしたいかです。九つの「お」の目玉は、いつまでもこちらを見つめています。


冬のドレス着せおとことだけ名乗る/城崎ララ

性別に触れる句はいくつかありましたが、この言い切りに勝るものなし。「おれ」から男性性を引き出して「おとこ」、しかしそうは名乗っていますが、マチズモの強さとは違うなにかもっと、まっさらな強さで立ち尽くしています。だからひらがなで「おとこ」なのかな。おとこ、って力強く口に出すと、ぜんぶo音なので”この道しかない”ってかんじの愚かさがだだ漏れですが、たぶんこの主体は強調してないんじゃないかな、と思いました。しぜんに吐く息の流れと量が音になるだけの音量で、おとこ、と名乗った。この声量がうつくしい。
そして「冬のドレス」が、ぼくの中のみゆきさんスイッチを入れてくれました。”断崖―親愛なる者へ―”というみゆきさん屈指の名曲の中に、「春の服」が出てきます。以下引用↓

風は北向き 心の中じゃ
朝も夜中も いつだって吹雪
だけど 死ぬまで 春の服を着るよ
そうさ 寒いと みんな逃げてしまうものね
そうさ 死んでも 春の服を着るよ
そうさ 寒いと みんな逃げてしまうものね
(中島みゆき”断崖―親愛なる者へ―”より)

“だけど 死ぬまで”が”そうさ 死んでも”に変わるとき、主体に宿る炎がすこしだけ大きくなる、すこしだけ光の量を増す、そのすこしだけに、みゆきさんが賭けたものたるや……………………あっ、失敬、泣いてました。
しかし一部だけでも、「春の服」に込められた覚悟と、それとはうらはらに華やかな色のひるがえるのがよく分かりますね。みゆきストのわたくしは勝手にこれを引き合いに出して、「冬のドレス」――「春の服」と徹底して真逆!――に作者の覚悟を見ました。「おれ」ではなく、「おとこ」。人類史と同じ長さのしがらみへの、さようなら。冬でしょう。でもきっと大丈夫。「少しも寒くないわ」? いいえまったく寒くない。「おとこ」そのひとが冬なのだから。
あ、「着せ」なんだから主体が別の人に着せてるんじゃないの? という指摘はあろうと思いますが、主体が着ているイメージが強烈だったので、その受け止めのままにしてみました。主体が句の前半と後半でシームレスに変わってるのかも。たとえば神様→おとこ、のように。そういう、理屈を押し流すような変身の句としても、おもしろいですね。


ずっと前ここには雨が降っていた/今田健太郎

111句の中に紛れているのを見つけたとき、ん? となりました。全体ににぎやかな、エネルギーに満ちた句の多かった今回、それとは対照的な静かさと落ち着き、そして妙な確信を持った言い方に引っかかってしまった。取るにはそれで十分でした。
今回の選句に当たって、海馬さんからたくさんご助言をいただきました。その中に、筒井祥文さんがおっしゃられていたという、「題詠はピントで作るか、ヒントで作るか」という名言がありました。出された題に照準を絞り、そのものをひたすらこねくり回すのか。はたまた題を踏み台にして、どこかしら彼方まで飛んでしまうのか。この句はまさにヒントの句でしょう。手前勝手に当てはめるなら、拙句「川を見てたらなにもかもおれだった」をも踏み台にしてくださっているようです。形のうえの類似だけでなく、あの連作(よろしければ↓からお読みいただけます……
https://drive.google.com/file/d/1ldEpyGyyx-vYC25ia6NpmvOlS8OTSZ9c/view?usp=sharing)
の光景を踏まえたうえで、それを過去にしてくださっているようでさえありました。うれしい。
一読、「ここ」への扉が開きます。百人百様の「ここ」を呼び覚ますだろう、と思うだけでもうときめくものがありますが、落ち着いて。「雨が降っていた」なんて、当たり前のこと。「ずっと前」の射程には個人差があるでしょうが、どこにだって雨は降っていたはず。つまり当たり前のことを、改めて書き出しただけのことな・の・で・す・が。ここでしずかにうなりを上げるのがそう、定型と、題です。愚直なまでの五七五。現代川柳ってこういうことかな、とことばを並べはじめたころのような、震えるうぶささえ感じられそうです。定型は寛大。五七五に並べたことで、このシンプルなことばの並びに深みを与えてくれます。「ずっと前」の射程も、「ここ」の幅も、「雨が降っていた」のはらむものも、どこまでも深まる。その後ろに、題がいる。ここでの「おれ」は、なにやらこの景そのものを統御する存在、景の創造主のように大きな「おれ」であるように見えます。景全体にはたらく力の総体としての「おれ」。あるいは景そのものが、「おれ」。これがあるとないとでは、句の見え方が全然違います。しずかだからこそ、より意識されるその存在感。こういう題への応え方もあるんだ、と学ばせてもらいました。

無視を終えDamn,Damn,と咲く祈祷/嘔吐彗星

Damn=くそ。ちくしょう。吐き捨てるように使われる、あまりお行儀はよろしくない方の単語。ヒップホップで頻用され、ケンドリック・ラマーはアルバムタイトルにもしてましたね。ヒップホップではないですけど、ジェイムス・ブレイク”CMYK”での使われようが印象的で好きです(https://www.youtube.com/watch?v=D2kr9udP6Zo&feature=emb_logo)。この句のDamnの調子にも近いんじゃないかな、と思いました。
そんな単語を使っているので、一見クール、スマートな句という感じを持ちますが、ねぶっていくうちにあれ、これ、おれじゃないか? とわが身に引き寄せられてくるものがあります。まず「無視」。これみんな日頃してますよね。してますよ。試しに無視してる事柄挙げてみましょうか。ウクライナ戦争。アフガン内乱。パレスチナ紛争。ミャンマー独裁。チベット迫害。エトセトラ、エトセトラ。国内もやりますか? もういいでしょう。家庭内にだって迫れるのは言うまでもない。おれたちみんな、無視して生活しています。
でも一日のうちのある一時、なんらか余裕ができて、それを直視してしまう(した気になってしまう)ことがあります。そんなときにこぼれる、Damn。句の上では字数の都合上二回のみの繰り返しですが……、ね。言わせないで。だめか。言うしかないか。実際は何度も何度も繰り返しますよね、こういうDamnって。Damn。Damn。Damn。Damn、Damn、DamnDamnDamnDamnDamnDamnDamnDamnDamnDamnDamnDamn、Damn……。
言わないよ、っていう人もたぶん、Damnの代わりの何かを持っているはずです。何も進まない、でも吐き出さずにはいられない。そんな気持ちはわかるのでは。これを「咲く」、と表す荒業を通じて「祈祷」へ逆転させる。そのことそのものがもはや祈りとなっている一句です。そうか、Damnって、祈りの咲く音だったのか。
先進国(笑)的な、余裕ぶった祈りに過ぎないかもしれませんね。でもすべての祈りは、すなおに受け止めたい。そういう気持ちは保ったまま、無視することに耐えて、おれたちは生活を続けるしかない。粛々と。そこに字面からは意外な生活との地続き感も察せられて、強い句だ、と思いました。


真夜中の脱衣所におれを捨ててく/高澤聡美

今回の投句の大半において、「おれ」はろくな目にあってませんでした。測られたり、吞まれたり、千切られたり。そういうしぐさが派手な句を見ると、「またまた~、言うて「おれ」とよろしくやってますや~ん!」なんて肘でぐりぐりやりながら読んでいたのですが、この句の前に来たときあっごめんなさい、となりました。本気で捨てるから。という、主体の覚悟。ふざけてました。となにやら正直に認めて、しゅんとなるほどでした。
この覚悟はどこからくるのか? 順に行くと、「真夜中」。夜中では許してもらえない。帰ってこさせるつもりがないらしい、主体の姿勢が伺えます。そして「脱衣所」。服を脱ぐところ、といいつつまた着るところでもあるはずなのですが、真夜中が利いているせいか、どうもいつもより「脱」が強い。脱ぎ切りです。脱衣は脱衣でも、奪衣婆さえ思わせる脱がし力。そういった暴力のにおいとともに、脱いでしまった後の無防備さ、心許なさまでがそこに混ざってくるようです。
そしてそれらふたつが「真夜中の脱衣所」、として合わさるとき、その景をもってさらなる凄さが「捨てる」行為に付されます。かぽー…………ん(お風呂の定番オノマトペ)。満ち満ちる不在。お湯も落としたし、もうだれもここに来ない。それゆえにますます濃さを増す闇、湿気、垢のべたつき、かつていただれかたちのニオイ。なにがあって「おれ」を捨てようと思ったかまでは読み取れませんが、こころは決まっていることが、この場所を選んだことからもわかります。そしてこの主体だけではなく、どうやら、これまでここに来た何人もの「おれ」が、ここへは捨てられてっている。そう気づくと、捨てられた「おれ」たちから発されるオーラも凄まじい。なまじ脱衣のごとく捨てるから、「おれ」たちは破れたり千切れたりすることなく、ほとんどそのままの姿で脱衣所にある。人形供養の供養される前、ずらーっと並ぶ人形たちの様子に近いなにかが、むんっ、とこちらを圧してきます。
それを背に、主体は先へ進みます。そんなところに「おれ」を置いて行ってしか行けないところに行くために。ここが強い覚悟の源でしょう。ほんのわずかな希望を見せるために、徹底して凄さを描写する。観念的に飛ぶ強い句の多い中、いましばらくその脱衣所に留まって、捨てられた「おれ」たちと座っていたくなるほどの、”手触り”の句でした。


どこにいるのよ 急に転ぶから/まつりぺきん

これも「ずっと前~」の句と同じく、毛色の違いに引っかかった句です。総評にも書いたとおり、直球のおれ=myselfとはちがう角度から作られた句はいくつもあったのですが、だいたいどれもにぎやかでした。そしてにぎやかであればあるほど、しずかな句が目立つのは道理。ですよね? そういうわけで、にぎやか街道を光速で焼き尽くした句か、街道の外れでほの光っていた句かを、結果的に取ることになりました。
この句、まさにほの光ってます。「ずっと前~」の句は景にすでに光が含まれていたのですが、この句はそうじゃない、なのに光っている。その理由をぼくは、イノセンスと取りました(評っぽいこと言ってる、Foooo!)。
まずこの句、構造が絶妙です。はじめ「どこにいるのよ」で七音、しかも呼びかけ。読んでいるこちらに向けられているようで、句に引き込まれつつ一音開けへ。「どこにいるのよ」=だれか/なにかを探している⇒見つからない不穏さを、一音開けがじょうずに象徴。そこへ「急に」。急に……どうした!? とこちらの読む速度も速くなってーの、「転ぶから」。これ「急に」の効果で七七みたいに読んじゃうんですけど、七七じゃなくて、七八なんですよね……。この加速、その前の一音開け、七音スタートという配置の妙が、七七のフォルムにみまごう安定感を生んでいます。「急」や「転ぶ」の語感にも、加速した後のスピードが沿っている。だから実は破調なのに、ひとつなぎの落ち着きがあります。
そして中身。「どこにいるのよ」とわざわざ呼んでいるということは、大切な人/ものはいま、目の届くところにいない。目的語がはぶかれているのが効果的です。このさがす不安≒原不安、だれもが持っている不安を匂わせることで、句は読み手に近づきます。そのあと「急に転ぶ」。さらなる不安。転ぶにもいろいろありますが、物理的に転んだとすれば視界から消える、ひるがえって「どこにいるのよ」につながります。が、なんだかもっと大きな「転ぶ」のように思えます。物理的どころか、社会から、記憶からも消えるような転び方をしたんじゃないか……。不安が煽られるほど、「どこにいるのよ」が読み手の中でリフレインします。これを先に持ってきたのがやっぱりうまい、読み手にまずこのことばが焼き付けられます。しかも全ひらがななので、音で焼き付く。どこにいるのよー、どこにいるのよー……、くり返す内、読み手はどんどん原不安の深みにはまり、自分の最初の庇護者(≒親)がいなくなってしまったようなさびしさに、どんどん幼くなっていきます。幼い頃=「おれ」しかない頃へ。
しかしたとえ不安を煽られても、「どこにいるのよ」と声に出して問うのはなかなかむずかしい。たとえばいまぼくが、この夕飯前の居間でいきなり「どこにいるのよー」と言い出したら、たちまち母と猫と犬にすごい目で見られるでしょう。それを問うてしまえるイノセンス。迷子の子どもが泣きながら親を探す、いまは失われたイノセンス。その残響をていねいにすくいとって川柳にしたのが、この句ではないでしょうか。いないのが「おれ」、この原不安こそが各人の深奥にいる究極の「おれ」、という雰囲気も感じて、どこまでも「おれ」の句だなあ、と見とれるのでした。


おれである。豆腐の四隅くずしつつ。/太代祐一

直球勝負。「おれ」の題で「おれである。」って始めるって、すごい度胸じゃないですか。いかにも「おれ」過ぎて、大仰で、えらそうで。しかも期待を異常に高めるから、大けがするかも知れないのに。ぼくだったら絶対やれないことをやっている、というだけで惹かれるのに、中・下での脱臼させ方がちょうど良いので、とにかく読めちゃいます。脱臼の、絶妙なやり過ぎてなさ。情けなすぎてもいけないところ、ほんとほどよい。すべてがほどよい。お手本のような句に仕上がっています。
そんなほどよさの上で何が書いてあるかっていうと、ヒジョーにしみったれた一人飲みの悲哀。「おれ」に内在のマチズモを、水でびしゃびしゃにふやかしたったみたいな。ただね、しみったれてばかりもいないと思うんですよ。しみったれまでなら「おれ」の典型(なんだ「おれ」の典型って)になってしまうところ、その後があるからこの句は立ってられてます。豆腐は豆腐でも四隅=角を崩している。既存の、しかも世間に知れ渡っている角を、ひとり淡々と崩している。そんな心に宿る思いは一つ、「おれである」。破壊こそおれ。おれこそ破壊。パンクと言うよりアナーキーの匂う、強さのある句です。四隅をくずすひと、高倉の健さんを重ねてもいいのでは。志村のけんさんを重ねてもよさそうですね。とつい男性ばかり引いてしまいましたが、性別は問わない強さだと思います。
まとまりがよく、ここまですーっと読めちゃいますから、ひと引っかかりしておきますね。くずしているもの、豆腐。道具立てが「おれ」の典型(だからなにそれ)にあまりにぴったりなので流しそうですが、なにせ句中唯一の具体的なイメージ=無二のこだわりです。なぜ豆腐なんでしょう。こういう、あるものがなにを象徴しているか考えるときにすることといえば……そう。マジカルバナナ。マ・ジ・カ・ル・豆腐っ♪ 豆腐といったら白い、白いといったら純潔っ、純潔といったら嘘っ、嘘といったら必要っ、必要といったら食事っ、食事といったら……この辺でいいでしょう。純潔――ぱっきり直方体の形状も純潔を思わせます――、それと表裏にある嘘。でもそれを手放すことはできない、だからせめて四隅から、角から崩すことで、それとうまくやっていけないか試している。不可欠な純潔⇔嘘との小さな折り合いムーブという点で、この句は一人飲みのカウンターから、外界に接続されています。さらにいえば、豆腐→純潔⇔嘘≒世間そのもの、と拡大すると、豆腐の中にはおそらく居酒屋があり、その中には一人飲みのカウンターがあり、そこには豆腐の四隅をくずしている人がいて、その豆腐も世間なのであれば、その中にはおそらく居酒屋があり、その中には一人飲みのカウンターがあり、そこには豆腐の四隅をくずしている人が……無間地獄、でさあね! エッシャーみたい。一人飲みのしずけさがまた、こうなってくるとエッシャーみそのものですね。句点。が効果的ですので、延々リフレインするも良し。おれである。豆腐の四隅くずしつつ。おれである。豆腐の四隅くずしつつ。おれである。豆腐の四隅くずしつつ……。やっぱりエッシャー、でさあね!!!


せんせい!ぶんべんだいに俺はなれますか?/ 藤井皐

題の「おれ」を漢字表記した句は少なかったのですが、そのうちの一句がこちら。しかも句中、「おれ」だけが漢字。ある意味どの句よりもストレートな「おれ」が、ここにいました。この漢字たった一字の違和感が強く、「俺」がおれ、と読む字でないような気さえしてきます。「俺」と書くけどおれではない、未知のなにか。ある意味ぶんべんだい以上に素性の知れない「俺」です。
しかしながらこの「俺」、ずいぶん積極的です。いやもっと言うと、愚直。それは表記から沁みだしてくる印象で、ひらがな連打のあほ、あ失礼。もう言っちゃったからいいか。あほっぽさが、読み手に親しみを与えてくれます。これ学校の先生じゃなさそうですね。おそらく、バッグス・バニーいうところの「先生?(=Doc?)」みたいな軽い呼称でしょう。呼称 でしょう(唐突なジョイマン)。知りたいことを教えてくれそうな人がいて、誰かは知らんけど失礼の無いように、と思ってとりあえず使う「せんせい」。ほほえましい。落語の与太郎みたい。
で、聞いている内容ですよ。「ぶんべんだいに俺はなれますか?」。「ぶんべんだい」ににわかに感じる切迫感。生き死にの濃厚な匂いがぷん、としたとき、読み手はスン…と冷静にさせられます。ぶんべんだい。分娩台、でいいんですよね? ひらがなで言ってるあたり人づてに聞いただけで、ぶんべんだいがなにかも分かってなさそうです、「俺」。これからだれかが出産するので聞いたのかな。「俺」が産むわけじゃないよな、自分がぶんべんだいになろうってんだから。でそのひとがなにかい、なんらかの事情で、産科にかかれねえってえのかい。そいじゃ産めやしねえよ困っちまわあってんで、てめえがぶんべんだいになろうとしやがる。ついちゃあなり方を知らねえから、お医者んとこへつーっと駆け込んでってえの、「せんせい!ぶんべんだいに俺はなれますか?」って――ああー、やっぱり落語っぽい。。。
落語としちゃうとエスカレートして、出産と無縁に、純粋にぶんべんだいになりたがっている可能性も出てきますが(参考:落語『擬宝珠』http://sakamitisanpo.g.dgdg.jp/gibosi.html)、どちらにせよ「俺」は、どこかで一度はだれかの出産、あるいは出産のうわさに触れているはず。触れて、なぜ触れた中から「ぶんべんだい」を覚えて、さらにそれになりたい、と思ったのか。産科医や助産師ではなくなぜ「ぶんべんだい」なのか……ここがこの句の醍醐味でしょう。
理由はともかく、切実な思いが暴走している。正誤もつかぬまま突っ走っているという意味では二十票差の句に近いものがありますが、こちらは脇目も振らず、というほどでもなく、ちょっとこちらへアピールするチャーミングさがあります。疑問符で終わるものの、「ぶんべんだい」を選ぶ決意の固さは、そのまま断定の強さに等しい。その思いをそのまま肯定できる、句として披露することを許容する大きさを背景に感じるあたり、川柳だなあと思います。
あと字面のパワーですね、「ぶんべんだい」。なにかは分かってないけど、たぶん、なんかつよいものだと思ってるよね、なんか……。すでにこの後の展開にあちゃー、な予感がしますが、にくめないやつであろう主体からはもう目が離せません。これもキャラ川柳、と言えるのかな? 音数でいくと4・7・8ですが、勢いの4→正調の7を経て積んだキャラクターが、8を自然に聞かせてくれます。
ちなみに出産時、側にいる人に本当に必要とされる役割は、ぶんべんだいになることよりも、テニスボールで××××を××ことだそうです……詳しくは各自、ご検索のほど。 

彼女がおれというときの涼しい眼窩/海馬

鋭利なうつくしさ。見とれることをも拒むような、「ある事実の中に、ある視点からだけ生じてしまう」美。当人たちは絶望のただ中なのに、外から見ると見いだされてしまう、破綻と表裏一体の美――。
ううむ。この句に関してだけは、なぜか抜き身で対さないといけない気がしてこう書き出したものの、これまでとノリが違いすぎる。もっとこういう句を選んでおくべきだったのか。ここまで来て、選のむずかしさにぶつかるとは。。。なんて言ってもしかたがないので、ここだけはきりっと参ります。西脇の多面性をご堪能あれ……。
……とあるシーンを切り取っている、というつくりの点で、選んだ句の中ではもっとも作為的、俯瞰した場所からつくられた句だと読みました。「おれ」に直結したり乗り込んだりするのではなく、道具立てとして「おれ」を使った句。でもあくまで主役は「おれ」。「おれ」をはめ込む器として、どれだけのものをつくれるだろう。という試行の結果、生まれてきた句のように思えます。それほど「おれ」とは距離の取りにくいものなのかと、あらためて思い知らされます。
「おれ」にもいろいろなシーンがありますが、ここで切り出されているのは「彼女がおれというとき」。全投句中でも、ここまではっきり性別が表われる語を使った例は、ほかにありませんでした。「彼女」が出てきたことでかえって判明した題「おれ」投句の傾向――ジェンダーをぼかした、あるいは踏み倒そうとした句がほとんどだった――に、「それだけじゃないんじゃない?」というように、あるジェンダーと「おれ」の間に火花が散る瞬間を切り取っています。厳密に言えば、「彼女」と呼ばれている対象の戸籍上の性や性自認については、記載が無いのではっきりしません。ただ主体はどうやら、その対象に女性性を認めるがゆえに「彼女」と表している。そして「彼女がおれというとき」を、なにか特別な瞬間だと感じている。だからこそ、こうして句に切り取られているのでしょう。
現状、女性性を持つひとの一人称は「わたし」「あたし」が大多数、ようやく「ぼく」が一般化しつつある、くらいの状況ではないでしょうか。このあたりの感覚は生まれ育ちや時代に大きく左右されますが、それにしても「おれ」はまだまだ多数とは言えないでしょう。それゆえ「彼女がおれというとき」、それを聴いた大半の人にはん、と引っかかりが生まれます。荒っぽいな、とマイナスに感じることもあれば、かっこいいな、とプラスに受けとめられる場合もある。このあたり「彼女」の性格や、主体と「彼女」との関係性によっても反応は変わってくるでしょうが、その反応として意識されるものが、「彼女」の「涼しい眼窩」です。
「眼」ではなく、「眼窩」。眼球の入っているくぼみ。さりげなく句末に置かれていますが、このたった一文字の差が、大きな違いを生んでいます。まず「眼窩」、本来意識されるものではない。「彼女」が生きているならば、おおよそ眼窩には眼球がはまっており、眼窩にたどり着く前にその眼が、主体の意識に留まるはずです。それでもなお眼窩が意識されるのはどういう状態か。①眼球が無い状態。「彼女」に生まれつき眼球が無いか、なんらかの事情で失ったか。②今のところ眼球はあるが、なんらかの事情でこれから失われる予兆がある状態。③「彼女」がすでに骨になっている状態。①の場合でも、眼帯や入れ眼をしていれば、見た目上眼窩は遮られていますが、眼球が無い、という事実を知っていれば、眼窩を感じることは十分に可能でしょう。ただし読み手とつながるにはレアケースかと思います。③は少し行きすぎな気がするので、ここではおそらく②、かと思われます。であれば、主体が「彼女」の眼に寄せる思いや、それが失われるだろうと想像することによる不穏さ・痛みも重なってひびいてきます。
これだけなら怖い句、重い句で終わってしまうところを、奇跡的な鋭さですくい上げて美しさまで持ち上げているのが、「涼しい」の一語です。「涼しい眼窩」。このほとんどシュルレアルな語の接続が、「彼女がおれというとき」の引っかかりに、未知の情感を呼び込みます。「涼しい」の語感は、快不快で言うなら快い方でしょう。先ほどまでの読みで行けば絶望的な未来が待っているのに、「涼しい」。ひょっとするとこの感じ、そのまま主体が「彼女」に抱いている印象なのでは? そう取ると、先に述べた「彼女がおれというとき」への引っかかりは、主体にとってはプラスの受けとめだとかんがえられます。「彼女がおれという」の、いいな、と思っている。しかし普段ならそれで済むところ、眼球の失われるような将来が予見される状況が迫っている。いいな、と思っている他者に迫る痛み。それはそのまま、主体自身の痛みにもなります。でもそうやって眼球の失われたあとの眼窩を思ってみても、そこにさえ、「涼しい」ものがある。そう感じてしまう、主体の「彼女」への思いたるや。恋情とくくるにはもったいない、あこがれや慈しみや、相手を想うあらゆるいとおしさの気持ちが、この「涼しい眼窩」に込められているのではないでしょうか。
あとひとつ。どうしてもぼくは、この眼球が失われる予兆というところに、戦争を思わざるを得ません。職業柄、『同志少女よ、敵を撃て』という本を目にすることが多く、加えて昨今の情勢――クソ情勢――がどうやっても顔を出してきて、「彼女」がいずれ兵士になる時勢の中にいるのでは、という想像が頭を離れません。生き死にの極地にいずれ置かれてしまう、その前の時点でのこの句と思えば、「涼しい眼窩」に寄せられた思いは、いっそう切実なものになります。眼窩を思ううつくしさは、なおさらいっそう――。この思いの点で、ぼくはこの句をいのちがけの青春句だと言いたい。あまりにかなしく、うつくしいです。



たいへん長らくお待たせいたしました。
次の一句が、海馬万句合第二回 題「おれ」の秀句です。



じゃない方のおれがおれと漫才をする/白水ま衣

先ほど、録ってあったNHK上半期朝ドラ『芋たこなんきん』の最終週を見終えました(『ちむどんどん』? それどういうことですか)。
『芋たこなんきん』は、川柳の大恩人・田辺聖子さん(ぼくの第四の母です)の戦後生活をモデルに、ある時期・ある町に住む人たちの日常を、ただただていねいに描く名作関西弁ドラマです。最終週では町子(≒田辺聖子さん)の連れ合い・健次郎の肺がんが末期を迎え、病院で寝たきり、ほとんど喋れなくなっています。その手を握ってしゃべり続ける町子に、健次郎が切れ切れに伝えます。
「つらいときも、ぼくはあんたの、みかたやで」
これに町子返していわく、
「七五調ですね、川柳ですか?」――。
実は『芋たこなんきん』、久しぶりの再放送でした(初回は2006年~2007年にかけて放送、なぜかDVD化されてません)。なので今回は見直しだったわけですが、この台詞、まったく覚えてませんでした。でもこの約二年、毎日川柳のことばかり考えて過ごしてきた今の西脇には、この台詞でばしぃぃぃぃぃん、と来たわけです。
「ぼくはあんたの、みかたやで」。
それはまさしく、ぼくが『はじめまして現代川柳』を買って初めて読んでいたとき、ずっと聴こえていたことばでした。

以前ある方がツイッターで、

川柳がある君がいる君もいる/野村圭祐

の句を引いて、「川柳に対するスタンスの答えとして、これほど正解たりうる句はない気がする。初めて読んだとき泣いてしまった」と、素直に述べてみえました(https://twitter.com/matsuo_aho/status/1559519852129226752?s=20&t=ecrYzRVDbEJv0EHeQ0gPIA)。
それに近いなにかを、「ぼくはあんたの、みかたやで」に感じたのだと思います。おそらく”川柳自身”のスタンスとして、これはある。勝手ながらぼくはそう確信しています。だってたしかに聴いたもん。それも声の大小や声色の違いはあれど、どのページでも聴いた。だからこうして川柳やっている、続けられている。川柳ってそういうものだったんだ、そういうものがあってくれたんだ、と思ったから、今こうして選評を書けているわけです。
……スピって来たな、とお思いですか。
いやいや。『当たりの進捗報告ラジオ』リスナーなら覚えがあるはず。暮田さんも、「スピで川柳をやってる」と、ラジオの中で話してみえました(2022.3.13『果物は高い』の回にて→https://www.youtube.com/watch?v=9xX9nw6e3NA)。創作ってきっと、本人が否定したってどこかにちょっぴりスピの部分があって、じゃないと続かないし続ける必要も無いからやらなくなりますよね。続いている間は、どこかその創作形態を信じている、それでぼくの/あなたのなにかがどうにかなる、と信じられているんだと思うんです。それはヒトだからこその営みだと思う。生きるだけなら要らないっちゃ要らない、そこに”でも”、を挟むからこそのヒト。あなたも。ぼくも。

…………なんだっけ。
そうだ、選評だ。

「ぼくはあんたの、みかたやで」ということば、だれが言ってたのかなあ、と思うんです。
『はじめまして現代川柳』のページをめくるごとに現れる柳人のみなさんなのか。いやそこまではっきりした声じゃなかった。じゃあ川柳そのものか? いやそこまで近くもなかった気がする。それでは……というもの考えにひとつの可能性をくれたのが、この「じゃない方のおれがおれと漫才をする」という句です――という話がしたかったんだった。
川柳という形態そのものについての句、とぼくは受けとめました。いかな川柳もじつは、「じゃない方のおれ」と「おれ」の「漫才」でできあがっているのでは、とかんがえると……この句、そう気づいた途端からどこまでもどこまでも無間風呂敷のように広がって、ここまで選評を書いてきた11句を、悔しいけれどここに載せられなかった99句を、ひいては世の中のあらゆる川柳を、みんなその中に包みこんでしまいます。説明のことばとしてあまりにうつくしい。整っているのに愛敬があって風通しがいい――今後だれかに現代川柳を紹介するとき、この句から始めたいと思うくらい開けています。
「漫才」という語の選択がとにかくばつぐんでした。漫才、したことありますか。遊びでもしてみるとよく分かりますが、あんなむずかしいことばと肉体のわざ、そうありません。発語の意味やネタの構成はもちろん、それをあなたに伝えるにあたっての声の調子や速さ、色、滑舌、間(間!!!)、それにともなうからだの使い方、からだと一口に言いましたが、そこにも表情、身振り、手振り、溜め、流れ、と様々な要素が入っています。そのどれひとつ違っても、かみ合わなくても、漫才は成立しない=あなたを笑わせるという結果に結びつかない。身ひとつの総合芸術です。川柳は決して、読み手を笑わせるに限らない文芸ですが、泣かせるよりも、怒らせるよりも、笑わせることはむずかしい。といいますか、笑うという結果までには泣くことも怒ることも含まれていて、それを知った上でしか笑わせるということはできない。おあいそでない、本当の笑いを引き出すためには、あらゆることが駆使されなければならない。もっと言うなら駆使するだけでは足りない、血が通っていなければ。ここまでのことが網羅されている一語としての「漫才」、とぼくは読みました。
どんなに情勢がささくれ立っていても、どんなに自分が無価値に思えても、どんなに死んでしまいたくても、死ねなくても、生きてるしかなくても、それがつらくてしかたなくても、「ぼくはあんたの、みかたやで」、と言ってくれる「じゃない方のおれ」がいること。それを信じること。そしてその「じゃない方のおれ」と、あなたを笑わせるための「漫才」をすること。そしてできることならあなたに、「ぼくはあんたの、みかたやで」と伝えること――それが川柳をする、ということなら、こんなにすてきなことに手を染めて、ほんとうによかった。そう思わせてくれたこの句を、はじめての選の秀句とします。ありがとうございました。


……ふう。


以上12句、不肖西脇が選ばせていただいた、題「おれ」の句でした。
あらためまして、投句してくださったみなさま、ここまでお読みくださったみなさま、そしてもちろん海馬さん、ほんとうに、ほんとうに、ありがとうございました。

書きすぎました。
でも書かずにいられなかった。
書かしてください、と思いながら書いた、12通のラブレターでした。
すこしでも楽しんでいただけたなら、なにも言うことはありません。ご意見・ご感想いただけたなら、これほど嬉しいことはありません。

それでは、みなさんの日々がすこしでもおだやかで、すこやかで、ぷりぷりなものでありますように。
おやすみなさい、またあした!


軸吟   だからそのトマトはおれに刺してくれ


西脇祥貴

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