樋口由紀子『めるくまーる』を読む
樋口由紀子『めるくまーる』(ふらんす堂、2018年)を読む。
ちょうど来た鯛 ちょうど来る正月
モチーフを句の真ん中にどんと置いて、そのまま力づくで固定する力技。いい意味(?)での厚かましさでもって行かれる。
蓮根によく似たものに近づきたい
どのパンを咥えて現れでてくるか
そんなことを言われても困るのである。勝手に近づいてくれ、どのパンでもよかあないか(っていうか、そもそも何でパン限定なの?)というところだが、とりあえず読者の読みのストライク・ゾーンを通過してくるので、びくっとでも反応せずにはおれない。
婚約者と会わねばならぬ大津駅
ほとぼりがさめるころにはスパナだな
この辺りになると、句がうまいか、よく出来ているのかどうかさえ、よく分からない。そういう判断を越えて、ぬっと切迫感だけが差し出される。(背景の状況を補っていく読み方ももちろん可能だが、そうすると途端につまらない句になるだろう。その意味で、読者のいうことを聞くつもりがない、まったくわがままな句ばかりだ。)
ういろうは漢字で書きたい 外郎
詳しくは知りませんけど ブルーチーズ
外郎(ういろう)、ブルーチーズとクセの強い食べ物が使われているにもかかわらず、それぞれの特徴は見事に無視されている。だったら何で書くんだよ、と外郎、ブルーチーズから苦情がきそう。じゃあ、別のものに入れ替えていいかというと、そうでもない気がする。句語が「動く、動かない」という評価基準があるが、その評価基準自体が反故にされているようだ。
暗がりに連れていったら泣く日本
ゆっくりと春の小川がでたらめに
ああ、分かりやすい意味がありそうだな、というところだが、しばらく眺めていると、句全体が、よく知っていると思ったけれどよく見るとまったく別の動物のようにこちらを見つめ返してくる。
次のような句は、どこに掲載されていても一目傑作だなと思う句なのだが、『めるくまーる』の中で読んでいると、逆に、傑作とした自分の判断が不安になってくるのである。
字幕には「魚の臭いのする両手」
缶の蓋見つからなくて美しい
空箱はすぐに燃えるしすぐに泣く
読みながら、よいと思った句に付箋を貼ったり、書き出したりしてみるのだけれど、最終的にどの句を選んでも、「ぬっ」という衝撃は変わらない気がしてくるので、困る。
とても厄介な句集である。
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