「海馬万句合」第二回 題②「エノケンの笑ひにつゞく暗い明日/鶴彬」選評

 この題では、よい句とよくない句が極端に分かれた。いろいろ悩んだ末、9句のみの選とした(よい句が9句しかなかったということではありません)。川柳句会というコンテクストもあり鶴彬、そして彼が象徴している川柳ジャンルの現実への批評性について考えることになったと思われる(それが、あまり面白くない結果に終わってしまった作句の一因と思うが、それはそれで川柳を書くとはどういうことだろう、という問いにつながる気がしる)。題にした句のトピックである「エノケン」(=榎本健一)については造詣が深い投句者はなかったようで、全体的に何となくのノスタルジアのこもった句が多く、題のトピックについてはスラップスティック的な〈空転〉といったあたりに回収されたようだ。ただ、この〈空転〉というのが、言葉に関わる者がいま一番の現実として付き合うことになっている表現の実相でもあるので、そうした迂回した回路で時事と直接向き合った鶴彬を継ぐことになった、と希望的に述べておきたい。


マントルに向かうハイエースで吠えた/ササキリユウイチ


ハイエースという実用性重視の車に乗って地球の中心に向けて驀進する句の主人公には、他ジャンルにはない直截さで吠えつづけた鶴彬と、身体能力にまかせて駆けまわり跳びまわる榎本健一の姿が二重写しになっている。鶴彬作品の魅力の一端は、政治的な正しさとは別に、政治/芸術の二分法を越えて、こうした疾走感を言葉に刻んだところにある。逆に、エノケンの笑いには確かに暗い時代へと真っ逆さまに入っていく時代の相が写されており、その意味でとても政治的なものであった。というわけで、この句の語り手の姿は、ニュースと「バラエティ」(よく分からない語だが)の境が溶解する中で、お笑い芸人(ひろゆき、維新の会関係者等含む)の思いつきの放言が政治的意見として珍重され、流通する、現在のまさに私たちの姿でもある。


ぶつぶつの手袋で集める紫煙/中山奈々


「ぶつぶつの手袋」は、畑仕事などでよく使う手のひら側につぶつぶのついている白軍手のことだろう。実用性のある道具であるが、それをはめて行う行為が「紫煙を集める」ことだという。喫煙という活動はこの数十年であっという間に日常風景から退いていった。そのことで逆に、私たちが過去を思うときに、意識・無意識を問わず、現実の肌ざわりを伝えるヒントとしてどこかに沁みついている。タバコの煙を「紫煙」と気取った名で呼ぶとき、正負をとりまぜて、現在において失われたものを象徴することになるだろう。そう確認したうえで「ぶつぶつの手袋」に戻ると、ここには確かに〈現在〉の手ざわりがある。記憶の中からも薄れていこうとしている「紫煙」を回収するタスクはどこまでも意味がないだろうが、そこに現れる過去と現在をつなげる感覚はそれそのものとして満足感を与えてくれる気がする(とまで書いてみたけど、単にサボってたところを見つかって、慌ててごまかそうとしてるだけかもしれませんね)。


オノデンの坊やに注ぐシャンディ・ガフ/水城鉄茶


関西に生まれ育った私としては「オノデンの坊や」には馴染みがないのだが、ネットを参照し、ヤンマーの「ヤン坊マー坊」のようなキャラクターであろうということで、一種のノスタルジアを込めて読んだ。20世紀後半からメディアに露出してきたこうしたキャラクターは、いまだに子どもの姿はしているが中身は中年を過ぎてすでに老齢に差し掛かっているだろう(その意味では、私とご同輩という感じ)。黒ビール+ジンジャーエールの気軽なカクテル、「シャンディ・ガフ」は彼にはちょっと不似合いな気がするが、そのズレた感じがこの句に柔らかい屈折を与えて、川柳句たらしめている。くたびれたオノデン坊やがバーの高いスツールに足をぶらぶらさせながら座り、ウイスキーが出されたら愚痴をこぼそうところでシャンディ・ガフのグラスを差しだされて、なんともいわく言い難い表情を浮かべて黙り込む場面を想う。


概念は襲われパパとなりにけり/西脇祥貴


「概念」は「襲われ」ても、「ママ」にはならないのだろう。また、「父」にも「お父ちゃん」にもならない、たぶん。ここには、信用度6割程度の説得力があって、その割合が川柳にはちょうどよい気がする。題に引き付けて読むと、「概念」から「パパ」への経過があり、それが「エノケンの笑い」から「暗い明日」への距離とパラレルになっていると考えられるが、エンターテインメントから戦時への落差に比べて、「概念」と「パパ」の関係はつかみづらい。ベタな読みとしては理屈っぽい哲学青年に子どもが出来、といった読みも可能で(一種の「転向」?)、しかし、「概念」と「パパ」、どちらがどの文脈において重みがあるのかは眺めているうちにフワフワとどうでもよくなっていく。このどうでもよいという味わいに、過去-現在-未来の関節が外れた「今」の現実把握がある。


The vanishing point vacuums laughter lines/嘔吐彗星


日本語川柳の場に英文をそのまま放り込んでくる図々しさ。これは評価してもしなくても気分次第か、ということで気分として、ここでは高く評価しておく。構文の整った立派な英文(川柳で使われる英語としては珍しい)で書かれており、直訳すれば、「消失点は笑い皺を吸い込む(ものだ)」となるだろうが、文法的には動詞となる“vacuums”も、名詞としての「真空」という意味を感じさせ、どこか構文を解体させる契機を含んでいるような気がする。題の鶴彬作品が時代という強いコンテクストをもつのに対して、この句は同種の様相をまさに様相のみ抽象化してギュッと絞り込んでいる。日本語であればどこかでたるみも出てきそうだが、絞り込みの果てに如何ともしがたく英語としてこの世に現れた句だ、と解釈したい。


光速−光速−Take the “E” train/川合大祐


ひたすら速い“E”列車。その速さの表現が「光速」の繰り返しという幼稚とも言える表現というところに投げっぱなしの批評性を感じる。“E”は「エノケン」の頭文字であるとともに、“electronic”の頭文字というベタな読みがふさわしいと思う。エリントン/ストレイホーン「A列車で行こう Take the “A” Train」は誰もが聞いたことがある軽快なメロディとリズムだが、「E列車で行こう」のリズムはどのようなものだろうか。たぶん、私たちはそのなかに否応なく乗せられているので、実際は「行こう、乗ろう take」は必要ないのかも知れない。


脛を刈る音をたてない円相場/おかもとかも


「円相場」という現実的な(でも感覚的には多くの人にとっては疎遠な)トピックをとりあげ、「脛を刈る」という体感を伴うような具体的な行為を取り合わせた点で、他の句よりグッと伝統句に近い。今回の句群では珍しいタイプの作品になっている。とはいえ、「~ない」という否定が核になっていることで、日常生活にしろ、経済にしろ、たっぷりつかみどころがあった時代に書かれた川柳とは、本質において大きく異なる。よく読むと、脛を刈る脚の描く円弧が、虚の相において「円相場」とその空転に実感を与えている。大事なのは、音が聞こえないだけで現実に多くの「脛」が刈られているのであり(それはまさに現実だ)、「たてない」という否定に、隠れた現実の厚みがこもっているところが言葉でできた表現の面白さだ。


鳩をかきまぜる いっかいやってごらん/太代祐一


平和の象徴とされる鳩。しかし、その鳥の実際の姿を眺めていると、どちらかと言えばそうした理想とは正反対の、ファシズムや全体主義に黙々と従う無知な群衆の喩に見えてくる(江戸時代までの日本では鳩は戦いの神である八幡神の使いらしく、平和とは反対のイメージだそうな)。そうした存在をかき回すことは、知識人を自任する人たちが自己の責務あるいは他者への呼びかけとして持ち出すところである。ただし、よく考えてみれば、みな幼児のとき、広場に集まる鳩の群れに駆け込んで群れをかき回して、大笑いしたことがあるに違いない。それを改めて(実はもう)「いっかい」やるように促すこの句の語り手の表情のニヒリズムには、時代に根差しつつ時代を越えた怖さ、触れるべきではないところに触れることを誘うような無邪気な怖さがある。


ここから秀句。


真空の完全がある/鶴彬  /川合大祐


斜線の前の部分「真空の完全がある」は奇妙な断言である。真空とはその場における完全な物質の欠如のことだ。したがって「真空の完全」では「完全」の意味が重なって冗長である。「真空」で十分なのであり、その時点で無視しがたい欠点のある作品に一見では思える。さらに、句末に「/鶴彬」とあることであたかもこの句が鶴彬の作品であるかのように示されている。これでは句の欠点以前の、創作としての最低限のルールさえ守れていないと言われても仕方がないだろう。しかし、斜線の前後が向き合うことで、この句は不思議な磁力を放ち始める。戦前・戦中において鶴のように創作で権力に立ち向かうことはほぼ無意味だったのであり、それが意味を得たのは彼が命を落としたという事実によって、その事実が戦後の文脈に回収されたことによって、である。鶴の句群は自らの死に向けて投げつけられており、時の作用によってその真空を通り抜けて私たちに届いているのだ。そうした鶴の地点から見て、今の私たちのあり様は真空の向こうにあるさらなる空虚、「真空の完全」なのではなかろうか。「/鶴彬」という署名を句そのものに刻み込むことによって、この句は今の私たちの生きる場を撃つことに確かに成功している。

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