「海馬万句合」第三回 題②「Straight No Chaser」選評

上のタイトルではURLを省略したが、題は以下のライブ録音(YouTubeより)である。

Straight, No Chaser (Live [Tokyo]) ―Thelonious Monk https://www.youtube.com/watch?v=S9QQbqupGe0&ab_channel=TheloniousMonk-Topic

告白すると、三つ目の題が「小町が行くぼくは一本の泡立つナイフ/石田柊馬」であることに表れているように、主催者としては、この「海馬万句合」第三回の企画にあたって、今年(2023年)6月に亡くなった川柳作家・石田柊馬さん追悼の意識があった。柊馬さんはジャズ愛好家であり、モダンジャズの変遷と川柳の展開を並べて説明することもあったと聞いている(柊馬さんがジャズにふれた文と、柊馬さんについてジャズにもふれて書かれた文を、このページ末に引用しておきます)。

柊馬さんがセロニアス・モンクを好んだかどうかを私は知らない。川柳でとりあげるなら、チャーリー・パーカーでも、マイルス・デイヴィスでも、ジョン・コルトレーンでも、ビル・エヴァンスでも、エリック・ドルフィーやアルバート・アイラーでもなく、モンクだろう、というのは完全に私自身の好みである。ただ、悲壮感のない諧謔味や軽みがあり、曲にも演奏にも心地のよいねじれや浮遊感があるということで、モンクはじゅうぶん川柳的であると思うのだが、どうだろう。

投句数は他の題より少なめの87句。そこから並選が8句、特選は少し多めの3句となった。

〈 並選 〉
そいつ、そいつがあの粗いアッシリア
ドライスキンに徹するべきだ
水族館 歴史はいつもかわいそう
浮いたまま歩いて夢をおびきだす
隕石の降らない大半の日々よ
ドラムドラムあなたのへその見せどころ
A little deaf; 砲弾の聞き手は僕だ
天皇の街にひとつの零を弾く
〈 特選 〉
瞼はふたつでもただ壊れてゆく
固唾もじじつ船酔いだとさ
文字盤に耳で飛ぶ象死んでいる

軸吟  チンピラのピアノが唄った遠いいくさ

 

<選評>

そいつ、そいつがあの粗いアッシリア

一句目からいきなり、意味的には“Straight No Chaser”やセロニアス・モンク、ジャズなどとはまったく関わりがない句を選んでみた(以降も題と関係あるの?という選句がつづくが、もともとそういう性質の題なのだと思ってください)。「アッシリア」は西アジア、チグリス川流域に起こった古代王国で、じゃあ、それがなぜ「粗い」のか、「あの」という指示詞がどう機能しているのかも不明である(「あの」といわれてついていけるほど「アッシリア」について知識がある読者はまずいないだろう)。この句のポイントは「そいつ、そいつが」というぎこちないくりかえし、「あの粗いアッシリア」の4つの「ア(あ)」音が刻む、つっかえがちのリズムである。音楽をそのまま題としたわけなので、そこに聞き取れるメロディ、リズムに集中した作句はとうぜんあり得るし、そこから、完全なナンセンス句であるのに不思議にすっきりとした句姿をもつこの語のあつまりが浮かびあがったことに、川柳というものの興、楽しさは十分にあると思う。


ドライスキンに徹するべきだ

意味や意図が不明な断言を七七のかたちを用いて有無をいわさず読者に手渡し、即、この句の語りは消滅する。「ドライスキン」の意味は知っているが、その意味を記憶からよく掴みきれないうちに、読者は文型としても単純な棒のようなこの句を握らされたまま呆然とするよりない。その切れ味から妙な爽快感を受けとりながら、「ドライスキン」は別に意志して選びとるものでもないし、そもそも徹したりしなかったりする〈姿勢〉ではないではないか、と遅ればせながら(意味的に)突っ込む気持ちが湧いてくる。だが、その突っ込みに答える主体(現実にであれ、言葉の上であれ)はすでにそこにはいない。読者は「ドライスキン」と自らとの関係に、不条理ながら、まことに意味不明に絡めとられたまま、ぽつんと取り残されるのである。


浮いたまま歩いて夢をおびきだす

モンクのピアノ演奏には独特の浮遊感がある。多くのジャズが疾走感や流れのよさに傾くのに対して、モンクの曲・演奏は歩行、しかもぶらぶらと、外から見ると目的を欠いたように見えるぎこちない歩みを模しているように感じられる。音のそこかしこに凸凹やすき間があり、その穴や間にさまざまな感覚や感情が通って、しかもそれを縛ることがない(歩き始めた赤ん坊のようだ)。モンクについての記録や分析を読んだわけではなく、これまで聞いた彼の演奏から感じることでしかないが、いわゆるきちんとした演奏を拒否することによって、意外なもの、他なるものを招く身ぶりとして、モンクのピアノ演奏はあるようだ。この句はストレートすぎるほどにそうしたモンクの楽曲、演奏の特質をなぞっている。こうしたナイーブさも川柳のもちうる特性だと思う。


水族館 歴史はいつもかわいそう

「歴史はいつもかわいそう」とは意外な表現ではあるが、内容的にはなるほどと膝を打つところがある。「歴史はくり返す」とあれほど言われてきたのに、そうした俯瞰的理解は今、そしてこれからの歴史の展開にまったく役に立つように見えない。確かに歴史は気の毒な立場にある(人類がほんとにバカですみません)。句は、こうした世界のみごとな把握に、なぜか「水族館」という帽子をかぶせている。この帽子が一字空けをはさんだ以降の部分にマッチしているのか、どうか。ふつうの考え方ではマッチしていれば好句、そうでなければ失敗。ただ、この「水族館」という帽子は似合っているのかどうかが不明のまま、ただふてぶてしく自分の場所を占めている。無理すればいかようにも意味から解釈をつけることは可能だが、どこかそうした努力をあらかじめ滑稽に思わせるところがこの句にはある。「水族館」は「歴史」を救いもしないし、断罪もしない。そのドライ(水族館だけど)な関係に、この句の好ましさがある。



隕石の降らない大半の日々よ

そりゃそうですよね、と思うのと、「大半」ということは少ないながらそれなりの日数は「隕石」が降り注ぐのですか、と問いたくなるのとが半々の読後感である。句末の「~よ」がおおげさに見えて、絶妙の無責任を表明していて、その読者をかるく突き飛ばすような感じが、独特のねじれた愛嬌をかもしだしている。考えてみれば、私たちは生きている毎日について、くそ真面目に考え過ぎなのではないか。川柳に社会的効用があるとすれば、ひとを軽々と無責任にしてくれることではないのか、といい加減なことを言ってみたくなる。幸か不幸か、「隕石が降る」日も確かにあるのだし。


A little deaf; 砲弾の聞き手は僕だ

“A little deaf”(耳が聴こえにくい)ということはどうやら、この語り手はすでにいくどか、身近に大きな爆発音を耳にした後なのだろう。それなのに、まだ自らを「砲弾の聞き手」と位置付けて、自ら選び取ったその責務(なのか?)を果たそうと固く決意している。一見、前句の無責任と好対照に思える。ただし、語り手の決意はどこまでも無根拠であり、実際は、社会的責任とは切り離された自律的行為に、まことに自分勝手に身をささげているとも言える。ここに、シェルショックでくりかえし過去の戦争時の体験を反復する患者(フロイトの「死の欲動」)を見てもよいし、ヘビーメタルを爆音のヘッドフォンで聞きつづける一音楽ファンを見てもよい。私たちの生は、理由はなんであれ、そうした無意味な反復につながれており、そして、私たちはいつも何がしかの理由で “A little deaf” なのである。(どこまで解釈するか迷うところだが、切れの役割を果たしているセミコロン(;)にもちょっと触れておく。英語でのこの記号の用法は基本、二つの密接に関わり合いのある節(独立して文となれる語のかたまり)をつなぐことにある。その意味では、ここでの用法は真っ正直で、それが悪いわけでもないのだけれど、真面目だねえとは思う。)


天皇の街にひとつの零を弾く

「天皇の街」とは皇居のある東京のことだろう。とすれば、題のセロニアス・モンクの東京公演での演奏を直接に指している句ということになる。そこからストレートに読むと、「ひとつの零」はモンクの演奏そのもの、あるいはその何らかの性質を指しているのだろう(その内実は不明確だが)。一方で、日本文化・政治の空虚な中心として機能してきた天皇という存在についても、この「ひとつの零」という言葉から想起せざるを得ない。日本文化とはまったく異質な現象であるはずのモンクのジャズ、それが東京で鳴り響いたときにどのぐらいの異化効果があったのか、あるいは、それさえ「零」で飲み込むようなこの国の文化であったのか(あるのか)。ひとつの暴露であったととらえたいが、そもそもが「零」であるがゆえにその反響はいま、跡形もない。



ドラムドラムあなたのへその見せどころ

ジャズの独特なところの一つは、それぞれの演者のソロタイムが用意されていることである。さて、あなたがジャズ・バンドの一員であるとしよう。ドラマーのソロにつづいて、あなたにソロタイムが回ってくる、そこで楽器をもっておらず、声も出ないことに気づいたらどうするか。ひとつの対処法がこの句で示されているように、「へそを見せ」ることである。ジャズという音楽は、あらかじめあるメロディーやコード進行を基にある意味でどのぐらいふざけてみせるか、という根本的にコミカルなジャンルである(極端にシリアスなコルトレーンやアイラ―のようなアーティストがいることはとりあえず置く)。それまでの展開に対して上手い演奏で返すという正攻法もあれば、あえてセオリーを外した音程やリズムを放り込んだり、場合によっては、壁を殴ってみたり、変顔をしてみせたり、楽器を投げ捨てて踊り出したりといった搦め手からのアプローチで対処することも許されている。と考えると、ジャズは川柳によく似ていると思えてくるのだが、どうでしょう?

ここから3句が特選。


瞼はふたつでもただ壊れてゆく

前半「瞼はふたつでも」と後半「ただ壊れてゆく」の間で飛躍あるいはねじれがある、とそう始めは思った。ところが、接続の「でも」が予想以上に強く、この「でも」の前後2か所に飛躍あるいはねじれがある、丁寧に読むととても複雑な句だ。
とりあえず前後の情報を確認すると、「瞼はふたつ」なのは、ひとりの人間のことだと想定すれば普通の状態である。一方、「ただ壊れていく」とはただならぬ事態に違いない。
さて、「~でも」というのは「他の状況であれば以下述べることは当然だが」という意味である。「瞼はふたつ」と「でも」の間に逆説の意味以上のねじれを感じるのは、「瞼はふたつ」なのはあくまで普通の(あえて言あげするまでもない)事態であって、他の状況をわざわざ考えることに無理があるからである。この過度のねじれによって、「瞼はふたつ」ではない状況が頻発する異常な世界が遡って意識されてくる。
「瞼はふたつでも」と「ただ壊れてゆく」の間のねじれの感覚は、「でも」というよりは「ただ」という副詞の働きが大きそうだ。「瞼はふたつでも壊れてゆく」なら不思議ではあるものの受け取りは自然に行われるだろうが、「ただ」が入ることで「壊れてゆく」事態がさらに異常な事態であることが強調される。
多重のねじれの感覚から伝わるのは、強い危機感、切迫感である。我々が瞬きするごとに壊れていくこの世界。モンクの演奏が掬いとるのはそうした世界のさまだろうか。



固唾もじじつ船酔いだとさ

モンクの演奏の自由さ、それは同時に、どうしようもない不安でもあるだろう(何に対しての、誰の不安?)。ゆらゆらと、まるで荒波で大きく揺れる船の上にいるように、さらには宇宙遊泳をしているように、足場はおぼつかず、確かに「船酔い」になってもおかしくはない。「固唾(を飲む)」という反応は、このモンクの演奏が与える不安にあらかじめ対処しようとするふるまいだろうが、「じじつ」を言えばそれはもう「船酔い」の一部なのだ。「~だとさ」という伝聞であるようで、また聞きようによっては自身の体験をオブラートに包んで語ったようでもある言いぐさは、この自由=不安=「船酔い」はすでに起きている、早く受け入れてしまえ、という甘い、怪しげな、無責任な誘いなのだ。とはいえ、この言葉を受け取った時点ですでに私たちは「船酔い」の中にいるのだけれど。

 
文字盤に耳で飛ぶ象死んでいる

「耳で飛ぶ象」とは、ディズニーのキャラクター、ダンボのことだろう。『ダンボ』は、母親と引き離された耳が大きすぎる子象が、その耳を使って飛行してみせることで、サーカスの人気者になっていく物語である。かつては「耳をダンボにする」という慣用句があったりして誰でも知っているキャラクターだったが今の認知度はどのぐらいだろうか。
調べてみると、1941年にディズニーが制作・公開したアニメーション長編映画作品が第一作で、2019年には実写版(!)がつくられている。題との関連でいえば、モンクのたたずまいには他のジャズ・ミュージシャン(あるいは、他の人々)にはないぎこちなさがあり、そのぎこちなさが独特の味を生んでいるところは、ダンボとの共通点と見ることができそうだ。
句で「耳で飛ぶ象」を前後から挟んでいる「文字盤に~死んでいる」はかなり強い表現で、どう読むかを考えさせられたが、すでにモンクを含めたジャズ・ジャイアントたちがみなあの世に逝ったことを考えれば、その事実を述べただけでもある。また、〈ダンボ+時計〉で検索すると文字盤にダンボが描かれた時計が多数販売されている。古くなったそうした時計が打ち捨てられているシーンなのかもしれない。
いずれにせよ、ダンボやジャズ・ジャイアントたちの魔法が歴史の彼方へ飛び去ろうとしている時代を私たちは生きており(いや、下記の柊馬さんたちの言葉を読むと、もう半世紀はそうした彼らが死にゆく世界を私たちは生きてきたのだろう)、YouTubeで動くモンクの姿を見ることはそうした時代の死をくりかえして見ることでもある。
さて、われわれの時計の針はまだ動いているだろうか。

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「ジャズのアドリブがテーマから発して為された時代と、是を破って尚、ジャズの自由を求める時代への世界の推移が伴ったことを思えは、冨二の構文(アドリブ)が其の時節のことであったと認識される。」
(石田柊馬「川柳性の件」『つづきのコラル』
http://tuzukinokai.cocolog-nifty.com/blog/2017/10/post-5325.html

「石田柊馬には、「最後の川柳ランナー」の自覚があった。ジャズがフュージョンに変質し解体していったように、川柳も変質していく。変質した川柳はもはや川柳ではないと彼は考えるのだろう。そこで彼は「最後の川柳ランナー」を自称する。/この言葉が私には不満であった。彼がアンカーだとすれば、そこで川柳は終わってしまう。川柳の消滅、あるいは変質。確かに一つの文芸ジャンルが成長・発展を終え、その生命力を失って解体・消滅していくことは、文学史上しばしば見られる事態である。フージョンがジャズではないとはよく聞かされた言葉だが、フージョンの先駆はジャズの帝王・マイルス自身ではなかっただろうか。」
(小池正博「石田柊馬における危機意識の超克」『MANO』第十四号https://weekly-web-kukai.com/wp-content/uploads/2019/08/MANO-14.pdf


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