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「ピヨたんのたまごむしぱん」からの「典座-TENZO-」の話

食べやすそうだなぁ、と何気なく手に取った「ピヨたんのたまごむしぱん」。
たまご色のむしばんにはひよこの焼き印♡
なに?これ、可愛いじゃないの❗️、、で、お買い上げ。

ひよこといえば、小学校、校門外のひよこ売り。それを正しくは何と呼ぶのか知らないけれど、当時は「ひよこ売ってたよ」で通じた。

一度、ひよこを買ってもらった。でも、程なく天に召されて、、かわいそうなことをした。「もう飼わない!」と思った。

でも、それから何年か後、家でチャボという小さめの鶏を飼うことになった。学校の鳥小屋ぐらいの鶏小屋を父が作って。。。
毎朝、卵収集するのが私の役目。

ある朝、母鶏に襲われた。突かれた記憶は無いが、ヒャ〜〜っと、頭を抱えてうずくまる私の頭上を数羽がバサバサ飛び回った。小学生の私は凄く凄く怖い思いをした。

毎朝毎朝、寝起きの不機嫌な子どもがズカズカと入ってきて、産みたての卵を盗られることに我慢ならなくなったのか。本当はただ、気まぐれに追いかけっこ、、追い飛びっこ⁈でも始めたのか、、はわからないけれど。。。
でも、だからといって、忙しくしている大人達に「もう嫌だ」と言えず、、鶏小屋が取り壊されるまで、卵取りは続いた。

それ以来、鶏も鳩も、鳥類が近くに寄ってくるのが苦手になった。。

それでも勝手なもので、鶏肉は食べるし、卵も食べる。
鶏は絵も苦手だけれど、ひよこの絵は大丈夫。
実物は、鶏もひよこも可愛がってはあげられないけれど、命はいただいている。

「ピヨたんのたまごむしぱん」から、そんなことを思い出し、更に先日見た映画を思い出した。


典座 -TENZO-
  …「3.11」の文言にひかれて観た映画…

福島と山梨に生きる二人の若き僧侶の苦悩。そして青山俊董との対話。3.11以降の現代日本における“仏教”、そして“信仰”とは?

曹洞宗高僧 青山俊董老師の言葉が印象に残った。

「私自身がこの命を誰にも差し上げていない。いない私が、この命を生きるために、1日生きるために、どれだけの命を頂戴してるかわかりません。」

予告編でも聞くことができる老師の言葉。

”たくさんの命を、あるいは命をつなぐものをいただいた命”を人も動物も植物も生きている。

わかっていたつもりのことも、淡々と発せられる言葉を実際に聞いて、心の底まで染み込んできた。




読んでいただきありがとうございました。

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