日記かもしれないなにか

最近は結構本を読んでいて、それで色々考えたので言葉にしてみたいと思いました。事実は小説より奇だったりそうじゃなかったりする。

以下にまとまりはないです。

嫌いな人。自分で考えていなそうな人。常識を第一にしてる人。声がでかい人。音楽を聴かなくても、本を読まなくても生きていける人。あとは自分。

いつか死ぬなということ。この人生全てに意味はないということ。そもそも「意味」なんて概念が要らなくない?

私の人生は小説と違って重病になったり誰かを愛したり愛されたり殺したり殺されたりしない。でもそれは与えられるものではなくて選ぶものなのかもしれない。私は平々凡々な人生を望んでいるのだろう。人は本当に心から望んだことは、やらずにはいられないと思うから。「いつか〇〇したいなあ」と言ってやらないのは、できないからではなくて、別に本当にやりたいと思っていないからだ。

人類は恋を重きに置きすぎてやしないか?ただの病気なのに。あるいは宗教。それが悪いことではないです。知らんけど。

昔好きだったものを今は好きじゃないとか、嫌いなものがいつの間にか好きになっていたり、自分の感性って時と共に簡単に変わってしまうけれど、変わらないで欲しい。感情第一主義者としては、それじゃあしょうもないやんて思う。絶対的な自分の感覚が、心が、変化していくのは、それはあたりまえだけど、すごく嫌だな。いつか、好きだった歌が響かなくなったら、誰のせいでもないけどそれはとても悲しいことだと思う。

今のところは良い音楽を久々に聴いたらまだ良いままだった。素晴らしいものは知られてなくても、素晴らしいなら、美しいならそれでいいらしい。美しかったんだから。それは確かにここにあったから。

大切なものを増やしたくない。いつか失うから。

わかっている。いつか死ぬと。それでもそれがいつかわかっていないって気づいたら発狂しませんか?しますよね。わかります。

いろんなことを思い出したりする。でも昔好きだった人の匂いは全然思い出せないし、声も顔も曖昧になったり、ていうか何が好きだったかわからなくなって、あぁあんなに苦しかったのに別にもう好きじゃないってめちゃくちゃ面白いですよね。あれ全部性欲じゃない?大学生って馬鹿みたい。みんな死ねばいい。

劇的な何かを日々に期待するのはとてもダサい。「なんか面白いことないかな」って、昔バイト先の先輩が言ってて、こんなこと言う人間には絶対ならないぞって誓ったりしていたな。つまらない日々を愛そうと努力することとダサさはたいして変わらないって気づくのはだいぶ後になってから。全部言い訳じゃないですか。本質は一緒じゃないですか。人生後半って家族でもいないと暇で仕方ないらしい。絶対そうなりたくない。そう思ってるうちは俺は、こう、満たされることはないんだろうな。

何かを信じるのも信じないのも正しくないし、この言説すら正しくないと思う。言葉は、嘘を嘘だと示すことができない。

何かに怒りたい。全部どうでもいい人って怒らなくなるよね。感情の上下が疲れるから抑えてたら笑い方を忘れたタイプの人。俺は家族の死を悲しめるのかな。家族じゃなくても、例えば仲の良い友人が死んでも、俺は悲しめるのかな。自信がないよ。

愛されるコツはね、愛されることらしいよ。

殺したい人がいるうちは生きていけますが、僕は特にいません。


最後まで読んでいただきありがとうございます。 あなたの心に何か残れば幸いです。