heldioリスナーに届けるしおのはなし#9 令和6年5月23日 赤穂浪士の討ち入りに塩が関係していた!?その2

 前回、赤穂浪士の討ち入りの原因の一つに産業スパイ説があること、その産業とは塩である、というところまで述べた。産業スパイとは穏やかでないがどういうことか?
 江戸時代、各藩は自藩の財政を潤すために独自色のある産業振興に力を入れいていた。播州赤穂といえば製塩、これは歴史好きの方でなくてもご存知だろう。今でも「赤穂の」が塩のネーミングに多いのはこのためだ。では、一方の吉良はどんな産業に力を入れていたか?これが同じく塩である。
 吉良家の祖地と領地は三河の吉良である(現在の愛知県西尾市)。吉良家はここに入浜式塩田(詳細はいつか)をもっていた。この塩田は天文年間(1532〜1555年)に整備されているので、戦国後期の赤穂の入浜式塩田よりも歴史がある。しかし、赤穂はその後塩田技術、ブランド力を高め、吉良の製塩事業を大きく引き離す。となると吉良家は何とかして赤穂の新技術が欲しい。そこで上野介が内匠頭から情報を仕入れようとするが首を縦に振らない。仕方なく浅野領内に産業スパイを潜入させ、失敗。そんなことが事件に繋がったとするのが「産業スパイ説」である。
 「製塩ごときで産業スパイなんて?」と思う向きがあるかもしれないが、製塩法としてまだ歴史の浅かった「入浜式塩田」はまだまだ製塩技術に伸びしろがあり、技術力の差が商品の質、生産量に直結した。ある意味、産業スパイの出る幕であったのだ。
 今回は歌舞伎の忠臣蔵、歴史上の事件としての赤穂浪士を塩をつなげてみた。

(参考資料)
日本専売公社「塩の話あれこれ」(日本専売公社)
松本永光「塩屋さんが書いた塩の本」(三水社)
渡辺・井筒「正史・赤穂義士」(光和堂)
さらにネット情報のリンクをば。


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