ゆる言語学ラジオ#314言語地理学4「儲け話は、方言を選ばない.」にコメントしてみた!

 今回は「塩の道」に関する話題。多少の知識があるのでコメントしてみた!以下、コメントの「原文(本文と補足)」と「ここだけ追加コメント」を述べておこう。

(コメント本文)
 いつも楽しく拝聴しています.今回の「サカイ」の方言の伝わり方についてコメントします.製塩業を営んでいる関係で塩関連には多少の知識があるので恐れ多いと思いながら….「サカイ」の伝播の仮説として北前船に注目されたのは、前回の甲府盆地の話、即ち富士川の水運で「ン」が塩とともに運ばれたという推論からだと思います。そして、富士川は生活必需品の塩だったから伝わり、北前船はそうではなかったから伝わらなかった。両者の違いを商品の種類・質に求められました。しかし、塩の歴史をみていますともう一つの可能性が浮かんできます。それはもたらした人に注目する視点です。北前船は買取り、つまり商社であり販売のみですが、富士川は塩の生産者が運んでいた可能性があります。本書では瀬戸内産の塩が運ばれていたとありますが、瀬戸内産が登場するのは江戸中期、それまでは全国各地において塩の生産者が山間部に運んでいた状況があります。(富士川水運について断言できませんが…この辺りのことは本書の参考文献・宮本常一「塩の道」のp38、42、52にも記述があります)で、もし富士川の水運の運搬者が塩の生産者だとしたら…。古今東西、製塩に関わっている人が尊敬された、という逸話に事欠きませので(今、具体例が挙げられませんが。塩が人間に欠かせないもの、穢れを清めるのに必須だったからか?)運んだ塩の生産者がリスペクトされ、方言が広まった可能性があると言えます。(これは専業の塩売りにも準用可能かも)そして、北前船はそうではなかったから広まらなかったと。(もっとも、だから方言の飛び地ができた、とまで言えるのか?素人の私は判断できません。)また、本書では両者の違いとして、漁獲物の保存用の塩と生活必需品の塩という種類の違いを挙げてますが、冬に食料の得られない山間部に保存用の塩とて生活必需品ですし、北前船の塩は漁獲物の保存用に、直接使用の塩は別の塩を、という使い分けをしていたとは思えません。(瀬戸内産の塩が苦汁成分が多く、安いから保存用として区別したというのでしょうか?)身も蓋もない話になるかもしれませんが、こうしたケースでもいつもきちんと検証されているのでお伝えすることにしました。これからも「学びは面白い」にこだわり頑張ってください。長文で失礼しました。

(ここだけ追加コメント)富士川水運で塩の生産者が塩を運ぶ、その塩の生産者はリスペクトの対象なのでその方言「ン」が伝わった、ということは、これは現在の塩の取引からも推察可能かも。塩や醤油を小売店ではなく生産者から直接購入する人は多く、この市場は生産者と消費者のつながり、信頼関係が強くなりがち?(食の基本、とても大事だからかも)私の事業においても、旅館や小売店に置いておいても中々顧客は広がらない、直接販売、情報発信してファンになってくれたコアな顧客からどんどん顧客が広がる、即ち「口コミ」が力を発揮している。でも、これも本書の主張を補強する意図のもとでの論であり、かなりまゆつばものであるが…。

(補足コメント)
 経済活動を目的とする交流はことばを運ばないという前提に立つなら、甲府盆地の例でも、たとえ塩の生産者が運んでいたとしても(それとて商売なので)伝わらない、となりかねないので、もう一つの見方が有効になるかもしれません。山間部の住人たちが塩を得るために、山から木を切り出し、薪にして川に流し、河口(海岸沿い)の住人が受け取り、その薪で海水を焚いて塩にしてもらって、それを山間部の住人が取り行く、という形態が全国各地でみられたようです。その際、余分に薪を流して(生活用に使う)それを代金代わり(物々交換的)にしていたという話も…。経済活動でないとまでは言えないものの、お願いという形となるのでその分河口(海岸沿い)の人々に対するリスペクト度が高くなり、ことばが伝わり易かった、と理屈づけすることは可能かもしれません。あくまで経済活動はことばを運ばないという前提に立つならばの話ですが。(参考:宮本常一「塩の道」p37〜42)

(ここだけコメント)
 本書を批判することになりかねないのでコメントしなかったが(そもそも方言学の部分が主であると思うので)、前配信回の甲府盆地の事例にしろ、今回の北前船の事例にしろ、著者の推論はかなりいい加減、結論ありきの推論であると言わざるを得ない。自分の研究結果をなんとか形のあるものにしたい、手柄を立てたい、という気持ちは分からぬでもないが…

 まず、サカイが伝わらなかった理由として、北前船が塩を運んではいたが、それは漁獲物の保存処理のためだったからと結論付けている点について。本コメントでそれへの疑念について触れたが、どうしても気になったので引用文献として紹介されていた牧野隆信「北前船の時代」(教育社)にあたってみると次のようにあった。
「瀬戸内に出て下関までの各地で買い積むものには、赤穂、撫養、その他瀬戸内各地の塩がある。これは蝦夷地の漁獲物処理に不可欠な物資で大量に運ばれている。浜上浜、相生、玉島など船主により積み入れ港は違うが、塩は最も大切な下荷の一つであった。(113頁)」
 ここでは漁獲物処理に不可欠、ということが強はされているのみ。これをもって北前船の塩が生活必需品ではなかったとするのはいかがなものか?(もちろん、これとて生活必需品だとは思うのだが)これは本コメントにおける、漁獲物使用のための塩と直接使用の塩を分けていたとは思われない、との私の感覚とも一致する。加えて、地元産の塩を駆逐して瀬戸内の塩が入ったという当時の状況を踏まえると、すべての用途で塩の切り替わりがこの地で進んでいた(全地域とは言えないにしろ)と考えるのが妥当であり、地元産塩で直接使用の塩を賄っていたとも思えない。

 つづいて、甲府盆地の事例について。本書では、富士川でンが塩とともに運ばれていたので飛地になった、としている。が、その飛地と結論付けた大前提は、「静岡県と山梨県のンの間にはノーが挟まる。…ノーが間にある以上、静岡県と山梨県のンは連続しない。」(本書29頁)との考え方が前提になっている。ところがサカイが秋田、青森を飛ばして岩手に伝わったことについては、「伝わる地域間に地理空間上の連続性があるに越したことはないが、なければならないというものではない。」(53頁)としている。(その記述の後、都市の規模が関係しているなど、辻褄合わせのような未検証な根拠があげられている。)言語についての門外漢ではあるが少々気になるところだ。
以上

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