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【エッセイ】誕生日を迎えるにあたって

 今月に誕生日を迎える。あっという間に駆け抜けた一年だった。誰しもそうかもしれないし自分だけの感覚かもしれないが、私は長期的な期間の記憶というものが少ないように思える。うまく言い表せないが、点としてのエピソード記憶はかなり多いのだが、連続している自分の中にあるはずの連綿とした記憶がとても少ないような気がする。

 例えば、幼稚園の一階にあった水槽の中をネオンテトラが泳いでいたことや、幼稚園の園庭にキンモクセイが植えてあって、その花を拾って折り紙のコップに入れていたことなどはとても鮮明に覚えているのだが、一方で、この五年間、なにをして来たかを説明してほしいと言われたとしてうまく説明出来ない。執筆を出来る範囲で懸命にしていたとは思う。外出や家事を出来る範囲でこなし、音楽を聴いて、紅茶を飲んでいたことも確かだ。だが、具体的にどうとは説明出来ない。どうしてだろうか。

 学生の頃は行事があったから、いつなにがあったかを良く覚えていられたのかもしれない。決まった曜日の決まった時間にアニメを観たり、家族と関わることでの会話や外出が少なからずあったから、記憶がいまよりも鮮明なのかもしれない。

 私は、延々と小説やエッセイを書いていることは確かだが、その他の鮮明な記憶が連続しているはずの自分の心の中に見出せない。忘れやすいのかとも思うが、点としての記憶は沢山ある。その点が線で繋がらない感じだ。

 私は、繰り返し同じ音楽を聴いたり、同じ漫画を読んだり、同じ曲を弾いたりする。その影響もあるのだろうか。同じ一日は決してないのに、どうにも同じような一日をむかしから現在まで繰り返しているような気がする。そして、時間の過ぎるスピードがとても早く思える。太陽が昇って沈んで、月が昇って沈んで……という一日が、むかしよりもとても早く過ぎて行っているように思えるのだ。もう子供ではなく、おとなだからだろうか。子供の頃の、例えば一ヵ月間の夏休みは無限に続くと思えるくらいに長く楽しいものだったが、おとなになったいま、一ヵ月間は瞬く間に過ぎて行く。夏休みは自由に過ごすもので基本的に休めるものだが、おとなになってからの一ヵ月間はずっと休んでいるわけには行かないと思ってなにかしら私はしているので、それで時間が早く過ぎて行っているように思えるのかもしれない。しかしながら、本当にむかしといまで時間の過ぎるスピードは同じなのかと疑問に思ってしまうほど、私は時間が早く過ぎるようになったと思っている。

 少し話が逸れたが、同じような一日を過ごしているから記憶が曖昧になりやすいのだろうか。学生の頃と違って行事やイベントが少ないから、具体的にいつなにをしていたという説明がしづらいのかもしれない。

 私は、そのせいか分からないが実年齢と精神年齢に乖離かいりを覚えている。今月に誕生日を迎えることにも不可思議さを覚えるのだ。まだ、学生のような気がしてならない。或いは、学生を終えて少しだけおとなになった頃のような。どうしてだろうか。自分自身、良く分かっていない。分かる日は来るのだろうか。

 むかしは、誕生日が嫌いだった。望まれて生まれて来たと、どうしても思えないからだった。いまでも、その気持ちはないとは言えない。しかし、去年のお盆の時に親戚から一冊のアルバムを貰ったことで、私の気持ちは少し和らいだ。それは、私の赤ん坊の頃の写真を収めたものだった。私の母や父、祖母、祖父が私と一緒に写っている写真を幾枚も見て行く内に、私は愛されていたのだと知った。そこに写るひとたちの顔が笑顔だったからだ。きっと、最初は愛されていたのだ。時間が経ち、環境や事情が変わり、私を含めて皆が成長して行く過程で、きっと少しずつ歪んでしまったのだろう。誰も悪くなどないのだ。否、そう私が思いたいだけかもしれない。本当のことなど分からない。だから、そうであることにしておくのだ。

 誕生日は一年に一度の時間だ。私は、自分が生まれた意味など分からないが、これからも文章を書いて行けるように、私の時間が続いて行くように願いながら過ごしたいと思う。

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