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【エッセイ】過去のブランク、未来の約束

 なんとなく書き始めるエッセイのようなもの。

 むかしから何度か考えて来ていること。いわゆる「人生ドロップアウト」をしてしまったにんげんは、その後、社会復帰のチャンスはないのかということについて。

 私の職歴にはブランクがある。そのまま、私の人生にはブランクがある。ブランクには、空白や空欄という意味がある模様。でも、厳密は私の人生にはそんなものはない。いつもいつでもとは言わずとも、割合、一生懸命に生きて来た。皆、そうかもしれないけれども。

 けれど、「一生懸命」というものは職歴には書けないものだ。職歴の空白を埋めるものにはならない。資格取得の為に頑張っていた期間として、短期間ならば認められるかもしれない。しかしながら、私のそれはそうは行かないのだろう。

 一生懸命、頑張った。それが通じるのは小学生までと言われたことがある。一理、あるのかもしれない。成人、或いは、社会人になったら、結果が全てなのかもしれない。私が頑張っている執筆活動も、いつかは小説家にという夢の為の道であると考えて続けているが、もしも小説家になれなかったらどうなるのだろう。一生懸命、頑張った。こう、集約されてしまうのだろうか。

 職歴にも人生にもブランクのない、輝かしいひともいるのかもしれない。事実、私はいると思う。それを羨んだこともある。けれども私は私だ。私にしか私は演じられないし、未来に行く約束をすることの出来るひとも私には私しかいないと思う。友人の助けも勿論、ある。しかし、最終的には自分は自分が導くものだと私は考えている。それが個に生まれた、にんげんの定めだとも考えている。

 その上で、思う。自分自身にもどうしようもなかった出来事や期間については、どう捉えて行けば良いのだろうと。どう、前へ進んで行けば良いのだろう。少なくとも私には職歴にブランクがある。それは企業には歓迎されるものではないのだろう。でも、どうしようもなかったのだ。否、もっと頑張れば良かったのだろうか? けれども当時の私はきっと、限界まで力を遣っていた。そして、へこたれてしまった。それでも、いまがある。いま、この瞬間に私が存在していることを、私自身、心から嬉しく思っている。自分を肯定しているのだ。

 よし、頑張ろう。そう思った時、過去が自分の足を引っ張る。全ての過去が、ではない。限定的な過去だ(ここで言う私にとっては職歴)。もう、埋めようがない、過ぎてしまった時間。目を向けても、悔やんでも、決して変わらないもの。変わるものは、未来だ。未来を変えたい。そう思っても、過去が――。

 ひとがまっすぐに何処までも歩いて行けるとしたら、素晴らしいことなのかもしれない。挫折も病気もなく、美しいものだけを生み出す命として未来に続く道を歩いて行けたら。たとえ理想論だとしても。それはきっと、とても生産的なことだろう。だが、私には誰しもがそう在れるとは思えない。きっと私だけではないであろうと思う。なにかしらの出来事や理由で、人生や生活を少しだけお休みしていた、或いは、いまもしている方はいるのではないだろうか。そういった、私を含めたひとが、また世界にゆっくりと羽ばたいて行ける社会に、いま、なっているのだろうかと考えてしまう。いますぐに答えを私は見付けられない。

 生活をしている中で、人生を歩いている途中で。少しだけひと休み。そのつもりが長い時間のお休みになってしまうことも多々、あるのではないだろうか。そして、その休憩を終えた後にやりたいことがきっと出て来るのではないだろうかと思う。音楽や読書、ゲームやアニメ、紅茶や珈琲。趣味のこと、生活のこと、仕事のこと、色々と。最初はひとつかふたつでも。ゆっくりと沢山、浮かぶようになると思う。私は、そうだった。そうやって生活も人生も、緩やかに軌道に乗って行くものだと考えている。

 誰しもに優しい社会というものは、難しいものなのかもしれない。それでも思う。誰しもが、羽ばたいて行ける世界であってほしいと。

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