見出し画像

冬眠

雨の中、冷たくも温かくもない風が通り過ぎた。あと20分ほどで昼休憩が終わり午後の業務が始まる。彼女はコンビニに入ってレタスとハムとチーズのサンドイッチを買った。今日はどこで食べようかと思案するも良い場所が思い浮かばない。晴れた日なら川へ下る階段に座って食べるが、いまは雨で濡れているだろう。

あちこちにに錆びのこびりついたピンク色の傘が彼女の視界の端を遮った。生ぬるい温度と程よい湿気は、春と秋のどちらともとれた。彼女は一時的に季節が分からなくなった。でも、やっぱり秋だ、と若干混乱した頭で考える。春ならもう少し高揚感があってもいいはずだった。春には木々が若葉を茂らせ、水滴には張りがあり、車の排気音だって多少は楽しげに聞こえるだろう。彼女は遠くでじりじりと響く不穏な音を聞いた。これからこの地は冬を迎えるのだ。冬はいつも彼女にとって悪夢だった。

彼女はぼんやりと冬眠するムーミントロールのことを考えた。信じられるだろうか、ムーミンという生き物はムーミン谷で冬眠するのだ。冬眠前に針葉樹の葉をたくさん食べて長い眠りに備え、家族みんなで温かいストーブを囲んでベッドに入る。春を迎える4月までの5ヶ月間、目を覚ますことはない。彼女は彼らのように冬眠できたらいいのにと羨ましく思った。そうすれば、誰にも迷惑を掛けず深く深く沈黙の底へ沈み込んでいけるのかもしれない。

善は急げだ。冬眠の準備をしよう。仕事は辞めなくてはならないが、仕方がない。どうせもう限界は近かったのだ。彼女はサンドイッチを鞄に仕舞い、雨に打たれた道路をぐるぐると歩き回った。辞める口実は以前から幾度となく頭で繰り返していた。それをそのまま上司に伝えれば良いのだ。1月後の退職を希望すれば冬に間に合うだろう。彼女は明日出張から戻った上司に退職の意を伝えることにした。

事務所に戻ると、別の部署の人間たちによる怒号が聞こえた。電話越しに怒鳴っている社員もいる。彼女はデスクに着いてメールチェックと顧客対応を始めた。怒号は止まない。この会社では土木系の職人から材料を仕入れて商品を販売しており、職人の相手をするのは男性である。その一方で、顧客は女性ばかりである。女性である彼女がこの職場に就いたのはもともと消費者だったからだ。企業研究が甘く、男性ばかりの職場だと気付くのが遅かった。

2年半勤めている間、彼女はこれまで身を置いていた環境との温度差に苦しめられた。時にはある種のバリアのようなものが張り巡らされ、それが彼女を助けていた。しかし、彼女にとっては不幸の方が多かった。それももう終わりだ。私は春まで眠るのだ、と彼女は強く決意を固める。向かいのデスクに座る救いようもなく寒がりの社員が「寒い」と震えながら作業着の上から上着を羽織った。時間と共にだんだんと温度は低くなっていく。彼女の冬眠への憧れは積もる。

仕事が終わると、彼女と唯一親交のあった同年代の社員に退職するつもりだと伝えた。彼は表情のない声で「仕方がないね」と言った。彼女は自分の無神経さに気が付いたが、言葉を続けることができなかった。

彼女はスーパーへ行き、短絡的な考えでミックスナッツをカゴに入れた。クルミとアーモンドとカシューナッツとドライフルーツの混ざったものだ。他にもローストピスタチオの大きな袋を選び、無糖のアーモンドミルクを数本購入した。「冬眠をする」という浮世離れした発想が彼女の心を躍らせた。まだ冬眠の時期までは暇があった。彼女は1ヶ月の間、仕事終わりに日持ちのする食料品を買い込んだ。

かくして1ヶ月後、11月半ばに彼女は冬眠に入ったのだった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?