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劇場

劇場。

チケットを買おうとすると、売り場の男に金額不足を指摘される。

「役者として出演すれば少しばかり給料が出る。それを貯めればチケットは買えるよ」
ひょろりとした若い男はあくび混じりに言った。
「何かの役に空きが出たんですか?」
「いいや、役に空きはない。全部揃ってる。だから、自分で探すしかないね」
「あなたは何の役が足りないと思いますか?」
「僕にそれを聞かれても困るよ。専門外だ。僕はしがないチケット売りで、これが僕の役目なんだ。とにかく監督に話を通してあげるから、君はまずオフィスに行くといい」
こういった問答を何度か経験しているのだろう、男は慣れた様子で私をオフィスに案内した。
薄汚いオフィスに足を踏み入れると、奥に人影が見えた。潰れかけた回転椅子に小男がふんぞり返っている。チケット売りが声を掛けると、小男は哀れな椅子をキイキイ鳴らしてこちらを向いた。監督だ。
「……またか?」
監督は深く溜息を吐いた。タバコの煙がもうもうとオフィスを包み込む。
監督は立ち上がったように見えたが、徐々に濃密になる煙の中ではもうその姿を捉えられない。茫漠とした黒い影が膨らんだり縮んだりしている。
「何の役を希望する?」
監督はいつの間にか私の近くに移動している。
「わ、私は」
急に上手く息を吸い込むことができなくなった。心臓が早鐘を打つ。
「大学生の役とかはどうですかね?」とチケット売りの男がどこからか口を挟む。
「それはコイツには相応しくない」
監督がじりじりと迫ってくる気配がある。
「照明か音響をやりたいのですが」と私はやっとのことで答えた。でまかせだ。
「照明?音響?そこも人が足りてる。お前に相応しい役はこの世界のどこにもない」

暗転。

劇場はもぬけの殻になっていた。チケット売りの男がひとりで荷物をまとめている。
「今日から君が全部の役をやるんだ。今まで見てきたからわかるだろう?何でも好きなようにやっていいんだ。これは君の人生なんだから。チケットも君が売るんだ。ほら、これがチケットだ。そろそろ僕は失礼するよ」
私はチケットの束を手にして立ち尽くしていた。

暗転。

劇場は封鎖されていた。麻薬取引の温床になっていたらしい。警官が出たり入ったりしている。私は心のどこかでホッとしていた。
「観客なんていないよ。彼らは舞台を観にきていた訳じゃあないからね。別の目的があったわけだ」
どこからかチケット売りの男の声が聞こえた。
「ところで、君はこれからどこに行くんだい?」

暗転。

私は黒いローファーで砂を踏み締めて歩いていた。砂は深く、足を踏み出すたびに足首まで埋まった。このまま進めば、アリ地獄のように地中深く沈み込んでしまうのではないかと思った。辺りはどこまでも砂の海で、闇に包まれていた。空に浮かぶ半月と星だけが光源だった。そこは砂丘であった。目を凝らせば進む先は海岸で、いくつかの光が等間隔に配置されていた。

私はXX行きの最終電車を降り、ひたすら南を目指して歩いてきたのだ。左手にはチケットの束を持ち、右手に洋梨と食パンが半斤入ったビニール袋を掴んでいた。

そのとき、私には何だかそれ以外の道は無いように思えた。


ー2022年1月25日の日記から

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