夜の帳が下りるとき

2016年という年は、デヴィッド・ボウイの死で始まった。
そして今、最後のアルバム"Blackstar"を聞き返しながら、年の瀬をぼんやりと過ごしている。今年は色んなアーティストが死んだ。レオン・ラッセルも逝ってしまった。今年は暗い年だった。

音楽以外でも、今年はなんとなく暗い方向への変化を感じる年だった。政治のことについて、具体的にここで語るつもりはないし、それぞれの変化についてはっきり良し悪しを言えるほどの知識もない。
ただ感覚として思うのは、誰もが暗い時代の訪れを予感していて、それぞれのやり方でそれに備えようとしているのではないかということだ。少しでも懐に蓄えを残しておこうだとか。かすめとろうとする奴がいないか怯えてみたりとか。あるいは耳を塞いで、何も考えないようにしてみたり。あるいは過剰に慌ててみたり。

どんな風に暮らしていても、いずれ夜はやってくる。
明るい時代が永遠につづくはずもなく、明るいと思っていた時代さえ、嘘とごまかしの産物であったりする。
悲観論を煽りたいわけではない。どちらかといえば、明るい方向へ話を向けたい。
だから、そのために――歩き出すために、私は今いる場所の暗さを認識しておかなければならないと思う。

"Blackstar"には、デヴィッド・ボウイが死と向き合う様子が生々しく表現されている(ように私には聞こえる)。
時に混乱し、時に感傷的になり、果てしない空虚を覗き込み、過去を振り返り、成したこと、成し得なかったことを思い、あがき、あきらめ、そしてまた座して空虚を見る。
自分が死のうという時に、こんな記録映画みたいな作品を作っていたボウイの心境を考えると、恐ろしいようなカッコいいような、もうなんだか笑ってしまうぐらい芸術家で、この人の人生は、なんて美しかっただろうと思う。

夜の帳が下りたあと、暗い道をゆく我々には、松明が必要になるだろう。
暗闇を灯りもなしに歩くことはできない。逆に言えば、灯りがあれば、歩くことはできる。ボウイのようにとはいかなくとも、その道の行き着く先を見届けて、できればそれを形に残せたらと思う。
松明というのはつまり、音楽とか芸術とか愛とかアイカツとかそんなようなものだ。

なんだか宗教の勧誘みたいになってしまった。実際、これから新興宗教とか流行るだろうなあ。もう流行ってるか。
とにかく、2016年は暗い年だった。終わってせいせいした。

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