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夏の方舟 最終話 #04-07

最終話 07


 翌日、学校へいくと先生が言った。

「はい。今日は重要なお知らせがあります。宇仁田ハルキくんが、海外の学校へ行くことになりました」

 後半は上の空だった。
 うに子がいなくなった? うそだろ?
 なんでもアメリカだかどっかの大学からスカウトされてあっちに行ってしまったらしい。
 あまりにあっさりしすぎて冗談みたいだった。前から、その大学からはスカウトされてたんだけど、ずっと断ってたって話だ。あいつのいってたMIBっていうのはその大学の頭文字で、しかも間違ってて、ほんとはMITというらしい。
 誰もがいきなりの行動に首をかしげてたけどぼくにはわかった。
 もう、うに子はとっくに夢を見つけてたんだ。
 気付くとぼくは立ち上がって、うに子の家に走っていた。
 平屋の呼び鈴を押すと、ガラガラと玄関の引き戸が開いて、妖怪小豆洗いみたいに茶色い腹巻きをしたうに子の親父が出てきた。

「あの……ハルキくんいますか」

「なんだ、欧介くんか……あの子はもういないよ」

 金属じみた声でギラギラと鳴きまくる?の声をバックに、酒臭い息を吐いてうに子の親父はそう言った。

「アメリカに行ったんだ」

「そうですか……」

「旅立ちを祝福しようじゃないか」

「そう……ですね」

 そうか。もういないのか──ぽんぽんと肩を叩かれ、ぼくが顔を上げると、うに子の親父は満面の笑みを浮かべていた。

「いやしかし、子供がいないってこんなにもいいことなんだね」

「はぁ…………え……は?」

「そもそもね、おじさんは最初からね、子供なんて欲しくなかったんだ。生まれて来なかったほうが良かったんだよ。あの子は。ちょっと変だろ? もう疲れたんだよ。そんな気持ちの親に育てられるよりも、自由な国で自由に生きるほうがいいだろ。そう思わないか。どう考えてもそうだろ。そうに決まってる」

 気分が高揚しているのか、彼はぼくに笑顔でまくしたてる。

「なあ欧介くん。絶望したことあるかい。もうね、毎日毎日、世界が終わる気がして、生きるのがつらいんだよ。ああ、つらい。生きるのってつらい。だが生きなくては……大人だからね! 明日からはアメリカの大学が助成金をくれるらしくて、それをおじさんもわけてもらうからあんまり働かなくてもいいんだけどね。どうだい、大人っていいだろ」

 そう言うとスマホの画面をぺちぺちとタップしはじめる。
 ああ、そうか──。やっと、Sが言っていたことがわかった。幸せは誰かの不幸で、夢は誰かの現実。

「あのふりかけ……」

 スマホから目を離さずにうに子の父は気怠げに相槌をうつ。

「ん? なに?」

「おじさんがどうでもいいと思って入れてた、何年も前に賞味期限が切れたあのふりかけ、あれを、ハルキくんは楽しみにしてたんです」

「そうかそうか」

「ぼく、絶対に大人になんかなりません」

「うんうんそれがいいよ」

「でも、子供ができたらめちゃくちゃ可愛がってやるんだ。賞味期限の切れたふりかけなんかぜったいにいれない。毎日有機野菜のサラダと手作りの料理をつくって誕生日にはパーティーしてやるしぜったいにおこったりしないし捨てたりしない」

「ああ。それはいいね」

「だからかえしてくれよ!」

 うに子の親父は「ん?」というふうに首をかしげた。
 ぼくは拳をにぎりしめて歯を食いしばり、にらみつける目に力を込めてあごをひく。

「あいつとぼくがいっしょにつくるはずだった未来をかえしてくれよ……頼むよ。生まれて来ないほうが良かったなんて言うなよ……あいつもぼくも、ここにいるんだから。愛せよ、どうして目のまえの人間を愛さないんだよ。おまえに愛はないのかよ」

「うんうん。欧介くん。わかるよー。愛ね。愛。大切だよね。ぼくもあの子を愛してるからこその苦渋の選択なんだよ。悲しいねえ。もう、あの子はいないんだ。でも、すぐにまた会えるよ。大人になったら。携帯だって、パソコンだってあるんだ。いつだって会える」

 喉のおくがからからに渇いて震える。どこからか、斜めに鋭くさしこんできた夏の午後の陽射しが、刃物のように視界を切り裂いた。くらくらする。

「そういうことじゃねえんだよ。わかってねえよ……なんで大人のくせに人が一緒に生きるってことがわかってねえんだよ。そこにいて同じ思い出とか、同じ体験でちがう記憶をつくって、そのふたつのちがうことがひとつになることじゃねえのかよ? まちがってるのか? そんないつでもできるようなことじゃないんだよ。今しかできないことなんだよ! 今がすべてなんだよ」

 うに子の親父は「そうだね」とにこにこ笑う。
 ああ……膝から力がカクンと抜けた──世の中にはなにひとつわかりあえない人間が存在する。
 蝉の鳴き声が止んだ。
 そのときだった──。

「とりこみ中失礼」

「なんだね」

 きれいに染みがとれたうすい紫色のワンピースを着たSが立っていた。

「金をもらいに来た。そのまま続けて」

 そう言って、ずかずかとうに子の家に土足で入っていく。なかからなにかが次々に割れるガシャンガシャンという音が聞こえる。しばらくぼくと、うに子の親父は固まったまま、そこにいた。やがてまたSが現れると、その場で札束をぜんぶ抜き取った財布を地面に捨てた。

「なんだ君は」

「僕を買っただろ」

「ああ……? あのときのオカマか。てっきり女だと思ったら──」

 うに子の親父がそう口にした瞬間、白いものがとんだ。気付くと、彼の口の中にゴルフクラブがめり込んでいた。地面に、歯が転がっている。いま目にした白いものは、前歯だった。

「死ねゴミ」

 再度ゴルフクラブがこめかみをとらえ、うに子の親父は死んだように倒れた。というか、マジで死んだんじゃねえの? という倒れかただった。

「あんた。なんなの」

「おまえがきらいな大人だ」

「大人ってなに」

「可能性を奪われた子供」

 足元に倒れた親父を踏んづけ、どこかへ去っていくSの背中を見送った。

    *

 家に帰ると、ぼくの部屋には姉ちゃんがいて、本棚に『ジュリアとバズーカ』を戻しているところだった。

「あの人、帰ったの?」

「そうみたい」

「男だったの、女だったの?」

 姉ちゃんは「さあ」と小首をかしげる。

「べつに、どっちでもいいし」

 そう言って部屋から出て行こうとする姉ちゃんに、ぼくは言った。

「ぼくもそうなんだ。うに子が女でも、べつに男でも、かまわなかったんだ」

 姉ちゃんはなにもかも知っているらしく、うん、と同意して、一冊の本をこっちに差し出した。
 それはなんというか表紙に半裸の男同士がからまりあう、そっち系の本だった。

「これ、お父さんが書いたんだよ」

 知らなかった。中を見ると、けっこう濃厚だ。もしかして父さんはそっち方面の趣味があったのだろうか。

「父さんはなんで隠れてこんなの書いてたんだろう」

「さあね。両方イケたってことじゃない? もうひとつの自由な人生を夢見てたとか? あるいは無理解な世間と闘ってたのかも。でもさ、世間なんて意識しちゃったら、闘う前からまけてんだよね」

 確かにそうだ。

「愛情には男も女もないよ。区別するやつに限ってやけに理屈っぽいんだよ。本当の愛ってなにもかも区別しないことでしょ。だれかひとりや、なにかひとつを愛するなんて子供でもできるし」

 なんだかすごい理屈だった。

「姉ちゃんは。どうなの」

「あたし? あたしもなんでもいい。そんでもって、男をちゃんと好きになれるあんたも誇りにおもうよ。あんたは本当にちゃんと愛をわかってるよ」

「すんげえファックな気分だよ」

「なんで」

「ほめられるようなことをしてないのに勝手な理屈でほめられてるから」

「あははは、そうだね。ただやりたいことをやりたいようにやればいいんじゃね?」

 姉ちゃんはそういうと部屋から出て行った。
 ぼくは、膝を抱えてベッドにうずくまる。

 こんな気持ちもいつか忘れるんだろうか。

 いつか誰かに聞いた。忘れることが大人になるってことなんだって。でも、今はいろんな記憶装置があって、忘れるのが大変なくらいだ。昔の大人がおおきくなったら忘れてしまってたことだって、ぼくなら覚えていられるかもしれない。

 誰もがなにかを引き替えにすることなく、夢と幸せを手に入れられる──そんなありきたりな、普通の世界を想像して、ぼくは部屋の窓をあける。

 陽炎でゆらめく街は、まるで水にうかんだ舟みたいだった。

 ぼくはすこしだけ祈ってみた。

 祈りが時間も空間も超えて伝わるなら、子供だったぼくも、大人になったぼくも、失敗してしまったぼくだったかもしれない人たちも、すべてが救われますように。

 道路脇では灰色の作業着を着たおっさんが、汗だくで電柱に登っている。人が生きている。夏の中を泳いでいる。

 夏を泳ぐのに、舟は必要ない。

 ぼくも部屋から出ていく。

 夏を泳ぐために。


【『夏の方舟』終】


角川文庫『夏の方舟』 令和元年7月25日 初版発行
発行者 郡司 聡
発行 株式会社KADOKAWA

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