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熊本と東京で意識のかんじがちがうのはなぜなんだろう

■2018/01/12

図書館へ本を返しに行く。
それ以外とくになにもない日。

と、書いて「ああ……こういうのがまずいんだな」と考え直す。

「今日はほんとになにもなかった。無意味だった。消化試合だった」

そう思う日が多くなるのは、心が閉じてきている証拠じゃないだろうか。
とはいえ、毎日解像度をあげてあらゆる情報を細かく見るというのも疲れるわけで、このくらいの日があってもいいんじゃないだろうか。

でも瞑想してると勝手に解像度があがっていくので、瞑想が足りないということなのだろうか。

なのだろうか、と考えることはどういうことなのだろう。

中途半端な思考を仮止めのままに過程を繰り返すことで、心のなかには未解決のなにかがたまっていく。のだろうか。

瞑想は、心に溜まったゴミみたいな思考をデフラグする役目がある気がすると同時に、睡眠だって同じなんじゃなかろうかという気もする。

そもそも心というのは「こういうカタチだ」というふうに思うことで心自体を変化させることができる。

こないだの日記で同じことを書いていた。

人の心というのは自分の心自体を自分で書き換えることができる。
つまり、「心というのはこういうカタチですよ」といわれて信じると、そうではなくてもそうなってしまう性質があると思う。

要するに脳の可塑性の話をしているんだけれど、もっとなにかいいカタチがあるんじゃないだろうか。

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