ツイッターで見つけたいい言葉2

武術家の光岡英稔さんの言葉です。

「今までとこれからの繋がりからまずは自分という法則性を知る」

「そうすると、自分の体調や周囲の動きなどを含め、想定外でした、予想外でした、はすくなくなるだろう」

想定外、とか、予想外という言葉には耳馴染みがあります。ニュースや天気予報などで、予想を遥かに上回る〇〇、のような表現はしょっちゅう聴きます。

自分のことを振り返ってみると「思ったよりできなかった」「〇〇さんが××だから、△△しなきゃいけない」のような、人のせいにすることとか、自分のことなのに予想する能力が未熟なことを、何か「予想外」「想定外」のせいにしようとすることがあるなあ、と思いました。

政治家の言葉の中にも「未曾有の大災害」なんてあった気がします。私たちは、だんだん、「想定外」「思いもよりませんでした」みたいな言葉を、責任をとらないための方便としてなのか、そうではないのか、自分自身で使いながらも、分からなくなってきている気がします。

このツイートには前段階があり次のようにツイートされています。

このツイートは、文章としても隙がなく美しいと感じました。

「何かがあっても人のせいにしない」

これは、難しくなかなかできるものではないけれど、理解できます。

「自分のせいにもしない」

これはどうでしょう。私たちに染み込んでいる道徳や美徳に謙遜というものがある。謙遜は度を超えると卑屈になります。卑屈な姿勢を押し通せば何とかなる、あるいは、全ての罪を被るように自分をいじめる、というのは、ある意味傲慢なこともあります。

自分のせいにしない、というのは、武術家の方の言葉だなあというかんじがします。すべて実力や、自然が表に出た結果である、だから、そこに良い悪いが無い、というようにも読めます。

「自分の手足と我が身ひとつでできることからし、」「問題をひとつひとつ改めていく」

これには、時間を要します。スイッチひとつ、タップひとつ、課金ワンクリック、に慣れてしまった習慣から離れたところにある話だと思いました。

自然学校をやりたい夢とつながってきますが、ワンクリックではない、ゆっくり、時間がかかるけど、穏やかで豊かな体の世界の話だと思いました。

私は、周囲の凄い人や、素敵な人に憧れて、つい、高すぎる目標を置きがちです。

体ひとつでできる日々の生活から、高すぎる目標の中に混じってしまった無理(経済力の問題とか体力の問題とか適性とか)を間違いと認めて、日々修正しながらも、怠らずにできることを行う。

 上記の言葉は、シンプルですが、私たちは、自分がいま、何故、何のために、なにをしているのかわからなくなりやすい時代に生きています。

「知っている範囲で、分かっている範囲で、できる範囲で」「新たに知る試みを持ちながら」「先を考えながらも目の前のできることをしていく」



「これを人生という」。

当たり前のことだ、と感じる方も少なくないでしょう。でも、昭和、平成、令和を跨いで知っている世代としては、上記のような当たり前の人生が歩みにくくなっている気がします。

ひとりの人間ができる身近なことの範囲を大きく超えた巨大な産業技術中心の世界が、今の赤ちゃんたちの前に立ちはだかっているんです。だから、人間ひとりができることを超えた仕組みに、赤ちゃんが合わせていく人生に急速になっていると思うんです。

日本だと、そういったことが特に急速になったのは戦後からずっとかなあとはおもうんですが、最近のスマホ時代からコロナ時代?にかけて、加速している気はします。

知っている範囲、分かっている範囲、できる範囲、というのは、大昔なら、体で理解した範囲のことを指すんじゃないかなと思います。

今だと「知っている気がする」「わかったつもりでいる」「できないかもしれないけどいつかお金持ちになった時にできればいいな」みたいな、モヤモヤしたかんじが人の中に膨らんでいるような気がします。このあたりは私の予想だけど。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?