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34歳OL、がん宣告から復活までの1年間。

今から4年前、実父を肺がんで亡くしました。その病気に、まさか自分も侵されているとは思いもよりませんでした。

昨年7月、お腹の中の我が子は8ヶ月を迎えていました。一般的に妊娠後期になると、重いお腹を支えるために腰痛に悩まされる妊婦さんがほとんどで、私もそのひとりでした。

私の場合はその症状がかなり酷く、歩くことすらままならない状態で、松葉杖さらには車椅子で定期検診に通うほどでした。

横になっても、座っていても、どんな姿勢をとっても痛い……。妊婦だから大好きなお酒で痛みを紛らわすこともできない。つらい。とにかくつらい。毎日痛みに耐えながら、眠れない夜を過ごしていました。産婦人科の先生からは、特に身体の小さい私(身長148cmの体重40kg)は、痛みが強くでているのだろう、と。なるほど。チビという運命に産まれてこれほどまでに親を憎んだことは、たぶんなかったと思います。

そしてついには分娩台に上がることすらできないほど動けなくなってしまい、無痛分娩の実績が豊富な産婦人科クリニックでの出産を諦めて、形成外科と産婦人科の両方がある大学病院に入院することになりました。

形成外科の医師から「妊娠による骨盤への負担に加えて、もしかするとヘルニアを併発しているかもしれない」との診断結果が。しかし、妊娠中のためレントゲンを撮ることもできず、とにかく赤ちゃんが安全に生まれてこられる日まで安静にし、帝王切開で産みましょう、という方針になりました。

2018年8月22日。無事に帝王切開で我が子を出産。2600gの可愛い女の子でした。普通だったら幸せ絶頂のはずが、産んだあとも腰から足にかけての痛みが取れず、正直心の底から喜べるとは言えない状態でした。授乳をしないといけないため、赤ちゃんに影響のある強い鎮痛薬は使えなかったので、またもや痛みに耐える一ヶ月を過ごしました。

「帝王切開でお腹を開いたとき、左腹部に腫瘍のようなものを確認しました。」

医師からそれを言われたときは、ことの重大さにまったく気が付きませんでした。検体を調べるとーー残念ながらそれは「悪性腫瘍」でした。正確には「原発不明の硬膜外悪性腫瘍」。原発不明というのは、どこから発生したかわからないという意味で、普通だったら「肺がん」とか「胃がん」とか臓器に癌ができるものがほとんどですが、私の場合は「◯◯癌」という名前すらない、突発的に癌細胞が現れるという非常に珍しい癌でした。これはつまり、「肺がん」や「胃がん」のように治療方法が確立されていないことを意味しており、どんな抗がん剤が効果的か、余命がどれくらいなのか、あらゆることがわからない癌でした。そしてすでにかなり癌が進行しており、背骨に浸潤。足の痛みの原因は、がん細胞による神経圧迫だったことがわかりました。

「骨への浸潤があり、手術はできない」そう医師から言われたとき、人生で初めて死を覚悟しました。大好きな夫とこれから歩むはずだった未来、そして産まれてきた我が子の未来を、私は見ることができないのだと悟ったとき、本当に絶望し、心から悲しい気持ちになりました。

でも、夫は諦めませんでした。彼は私の命をつなぐために、たくさんの論文を読み、片っ端から最新のがん医療を調べ上げて、1mmでも生きられる可能性があるなら、あらゆる治療をやってみようと私を励まし続けてくれました。

私はとにかく治療に専念することを誓い、育児におけるいくつかのことを手放しました。1つは「授乳」。まずは鎮痛薬を使って痛みをやわらげて気持ち的にがんに勝つこと。2つめは「我が子との生活」。退院後は赤ちゃんを乳児院にあずけ、私は治療に専念すること。産まれてきた赤ちゃんに母乳をあげられない、一緒に過ごせない、というのは、きっと赤ちゃんを産んだことのあるママさんだったらわかってくれると思うのですが、とてもとても、しんどかったです。

抗がん剤、放射線治療、最新の免疫治療、様々な治療を試みて約1年。夫と私にとって、戦いの1年でした。(詳しい治療内容や経緯までは語りきれないので割愛しますが)現在、奇跡的にもガンの進行は止まり、体調も良くなって、こうやって皆さんに現状をご報告できています。

夫は、会社を経営しながら車椅子の私を献身的に介護してくれています。いま思えば、彼が諦めなかったから、私はこうして生きられているのだと思います。抗がん剤の影響で髪の毛が全部抜けてしまったときも、「YUKONIC、かわいいじゃん!」と明るく接してくれたし、放射線治療のために東京から1時間かかる病院に入院しているときも、仕事の合間を見つけては大好物のスイカを届けてくれました。

夫の愛情なしには、戦えなかった1年。夫婦という、紙切れ一枚では語り尽くせない、それ以上のつながりを感じることができ、彼と出会えた自分はなんて幸せなのだろうと改めて実感しています。

私たちは娘を「水花(すいか)」と名付けました。病気の私を支えてくれたのは、果物のスイカだったから(夫氏のアイデア!)。もうすぐ1歳になる娘は本当にかわいくて、愛おしい存在です。今では週に2日は娘を乳児院から自宅に連れて帰り、世話をすることができています。

これから車椅子生活がどれくらい続くのかもわからない状況ではあるのですが、仕事も育児も、やれるだけやってみたいと今は前向きな気持ちでいます。ご迷惑をおかけすることもあるかと思いますが、どうか暖かい目で応援していただけると嬉しいです。引き続き治療にも専念していくため、ご連絡いただいても返せない場合があることをお許いただけると幸いです。

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