緑の階段

 子供の頃に住んでいた家は階段の多い家だった。まず門から玄関に上がるのにコンクリート製の階段があり、玄関を開いてすぐ正面に寝室へ続く緑色の階段があった。それとは別に、居間の奥にも建て増し部に続くわずか三段の階段があり、その少し先には別の二階へ続く長い階段があった。
 こう書くと混乱を招きそうな間取りだが、要するにもともと存在していた二階(西)が寝室で、後年増築されたのが中二階と二階(東)というわけ。なぜ二階同士を廊下で繋がず独立棟にしたのかは謎である。おかげで私は子供時代、合計四か所の階段を上り下りしなければならなかった。

 で、今日の話題は玄関を開いてすぐ目に飛び込んでくる「緑色のちくちくした絨毯がぺったり張りつけられていた階段」である。この階段はまっすぐ上った突き当たりが二股に分かれており、右が父母の寝室に、左が子供たちの寝室に繋がっていた。寝るために上り、起きては下りするので一番鮮明に焼きついている階段である。事件はある日曜日の朝、ここで起きた。

 ニチアサというとプリキュア、仮面ライダーなどが想起されるが、私が幼稚園生の頃放映されていたのは「メイプルタウン物語」や「うる星やつら」などだった。その後の人生を予見するかのごとく私は毎日曜にアニメを見るのを習慣としていたのだけれど、この日は目が覚めると既に姉や兄の姿がなく、一階のキッチンから母が家事をする音だけが響いていた。漠然と「寝すぎたな」と感じつつ、布団から起き上がる私。いつものように階段を下りて居間のテレビに向かおうとして、驚くべき事象に見舞われた。身体が宙に浮いていたのだ。

 誰に話しても「寝ぼけてたんでしょ」と言われるが、私の記憶の中では完全に「宙に浮かんでいる」状態だった。階段の最上部で足が浮き、そのまままっすぐ平行移動して、「これどうやって降りればいいの?」と困惑した瞬間謎の浮力が消えて床に垂直落下した。落下したと言っても着地はスムーズで、ストンと足が床についたという感じだ。断じて言うが、私は階段でジャンプ遊びができる子供ではなかった。昔からとにかくビビリだったので、三段の高さを跳べたら大金星であったのだ。それが十五段はあった長い直線階段を一番上から一番下までジャンプするなど寝ぼけていても不可能である。だいたいそれでは平行移動と垂直落下の説明にならない。
 惜しむらくは目撃者が誰もいなかったことである。「今、浮いてた!」と興奮した私はすぐさま家族に不可思議な出来事を伝えたのだが、わかってくれる者は誰もいなかった。最も私を納得させてくれた言葉は「死んだこの家のおじいちゃんかおばあちゃんが遊んでくれたんだろう」というものだった。

 それから幾度となく私はこの階段で「もう一度浮いてみよう」と試みてみたのだが、結局二度目の奇跡が訪れることはなく、小学二年生の秋、私は引っ越すことになった。
 あの緑の階段で私を抱き上げてくれたのは一体誰だったのだろう。今はもう知る術もない。