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今日という平和な時間を

私が通っていた小学校には図書室が二つあった。
一つは家庭科室などの特別教室や高学年の教室がある棟にあった、机や椅子が並んで本棚がたくさんそびえ立つ図書室。
もう一つは低学年から中学年の教室が入った棟にあった絨毯が敷いてある図書室で、なぜか恐竜の大きな絵が壁画のように貼ってあって、低学年でも全部見られるほどの低い本棚が入り口から窓に向かって一列。そこで私は、寝転がってたくさんの本を読んだ気がするが、何を読んだかはほとんど覚えていない。
けれど唯一、例外的にはっきり覚えている本があって、それが「はだしのゲン」だった。
私が戦争というものを知った初めてのことかもしれない。
はだしのゲンに描かれた戦争は、凄まじかった。
戦争反対といえば警察に連れていかれて殴られる、差別しないことは許されない、原爆が落ちた広島は亡骸であふれ返り、血と痛みと叫びと悲しみが理不尽に覆いつくされる。

高校生くらいになって水木しげるの戦争漫画を読んだ。
マラリアや飢餓、戦争の相手ではなく、従軍したそのこと自体で死んでいく兵士たち。慰安婦の小屋に行列ができる地獄の光景。
ここに描かれていることは戦争の真実だと思った。
あっけなく失われていくおびただしい数の命の中で、どこまでも人間の価値は軽く扱われていく。
尊厳とか、感情とか、私たちが生きて行く上で大切に大切に守るともしびは、戦争の前ではあまりにもあっけない。

「風が吹くとき」という、アニメがある。核戦争が起き、生きのびた老夫婦が日常を送るストーリーだ。
電話もラジオも止まってしまった老夫婦は何がどうなったのかまるでわかっていない。ただ、大きな爆風が吹いて、家がぼろぼろになる。なんとか残った食料を分け合い、雨水を組んで飲み水にする。
それを見た小学生の私は「飲まないで!」と悲鳴をあげそうになるが、老夫婦はそんなことには気がつかない。髪が抜け、体に斑点が現れてくる。体はだるい。老夫婦はそれでも淡々と日常を送る。救いはない。

大人になってこうの史代の「夕凪の街桜の国」を読んだ。
描かれた世界はあまりにも優しくて脆くてリアルで、原爆にあっても人は笑ったり、恋をしたり、楽しんだりしていた。
そんなかわいい人間が、終わったはずの戦争に追いつかれて命を落とす。
読んでいた私は涙が止まらなかった。

広島に住んでいた時知人で原爆資料館で通訳のボランティアをしている人がいた。
その時はまだ資料館は改装前で、今の原爆資料館よりもより当時に近い暗さをたたえていたような気がする。
引っ越しを繰り返すうちに彼女とは音信不通になってしまったが、彼女が言っていたことを時々思い出す。
「資料館でのボランティアの帰りには、必ずデパートに寄る。人間は、原爆のように酷いものを作ったけれど、同じ人間の手で美しいものも作れることを確かめたくなる」
ポンとボタンが押されて、ミサイルが発射されれば、簡単に街は破壊されて人の命は奪われる。

地球に張り付くように生きる私たちは、戦争など起こさなくてもさまざまな困難にあっているというのに。
私たちの手は、大切な人を抱きしめたり、おいしいものを作ったり、手当てしたり、美しいものを作ることができるのに。
中村哲さんが白衣を脱いで治水で荒野をみのりの大地に変えたのは、奇跡ではない。それは現実に起きたことで、人間の手が生み出したもっとも美しい景色のひとつだ。

市民は、いつの時代も、どこの国でも、戦争を望んでいない。
けれど、戦争が始まればそれを日常として生きるしかない。

私は戦争に反対です。

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