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スーパーのかぼちゃの種を蒔く

 テラスハウスタイプの賃貸住宅である我が家には、1階のリビングの窓の外に小さな庭がある。隣家との間をもみの木の囲いで仕切られてた畳2つほどの小さなスペースなのだが、気軽に家庭菜園をするには十分な広さで一緒に暮らすパートナーと2人で気が向いた時に適当に種を蒔いたり、買ってきた苗を植えてみたりして、気ままに遊んでいる。太陽が低い冬の時期には近くの雑木林や向かいの民家の影になり日当たりはあまり良くないけれども、夏になると日当たりがそこそこあるから遊び用の庭としては十分なのだ。

 今朝もパジャマ姿でなんとなく土の様子を観察していると、かぼちゃの種が発芽していた。5月の中旬に 6つ種を蒔いたのだが、そのうちの4つがしっかりと双葉を広げて地面に根ざしていた。そのうちの1つに関しては、双葉の片方にまだ種の殻が被さったままになっている。その殻が通気性の良い夏用のハンチングキャップのように見えてなんだかかわいいのだ。

 4分の1サイズに切られてスーパーで売られていたかぼちゃを料理する時に、種の部分は捨てずに取っておいたものを蒔いた。種の周りにくっついていた中綿を取り除き、水で洗い、そして空になったアイスクリームの容器に入れて乾かしておいた。楕円形でラグビーボールを平べったくしたような形で1円玉と同じくらいの大きさの種は、昔飼っていたハムスターのエサに入っていたかぼちゃの種よりもずっと大きい気がする。かぼちゃといえども日本かぼちゃ、西洋かぼちゃ、そうめんかぼちゃやコリンキーなど色んな名前を聞いたことがあるから、ペットの餌にするかぼちゃと人間が食べるかぼちゃも種類が違うのかもしれない。人間かぼちゃとハムスターかぼちゃ。

 スーパーで購入した野菜から種を採取して畑に蒔くのは初めてだ。普段は料理するときに下処理の段階で取り除いて他の生ゴミといっしょに捨ててしまう。まな板の上に乗った野菜には、食べるか捨てるかの2択しかないと思い込んでいたし、捨てている部分が種であることすらあまり意識をしていなかった。子どもの頃に、スイカやさくらんぼの種を間違って飲み込んでしまって、お腹から木が生えてきたらどうしようと心配していた純粋さを思い出した。子どもの方が世の中の物事を正確に繊細に認識しているのかもしれない。大人になるとある程度のことをひと通り経験して、慣れて、わかったと思い込む。きっと脳みそが楽を覚えるんだ。種を飲み込むたびに、根っこが生えてきてお尻の穴から出てきたら痛そうだと毎回心配するのは確かに大変だろうし、気を病まない為の脳の仕組みなのかもしれない。人間は本当に良く考えられてできているなと思うと同時に、毎日が発見の連続の子供時代を懐かしく思った。

 種はどこでも発芽するわけでなく様々な条件が整うことが必要である。それは発芽条件といって種の種類によって違うのだが、家庭菜園で育てるような野菜や花においては、多くの場合3つの条件を整える必要がある。それは土の温度、水分量、そして空気だ。光も必要では?と最初は思ったが、光は発芽においては必須条件でない場合が多いらしい(好光性種子と言って発芽するために光が必要な種類も存在する)。これは僕が数年前に農家として働いていた時に学んだことだ。種が水を吸収すると発芽のスイッチが入り、発芽後の生育に適当な温度と空気が存在することが確認できると種から芽を出すのだ。植物たちは自分が子孫を残せるまで生育できるような環境に行きつくまで芽を出さず種として休眠するという方法で命をつないでいる。それは厳しい自然界の生存競争の中で植物が種をつなげていくための生存戦略なのだ。この仕組みを初めて知った時僕は命の奥深さを知って感動した。人間が手を加える隙間などない自然の節理が、もうすでにこの地球にはちゃんとあるのだ。

 4分の1サイズのかぼちゃから10粒以上の種を手に入れることができた。種の量としては空のアイスクリームカップにいとも簡単におさまってしまう程で、気を抜くと存在すら忘れてしまう量だが、もし仮にこの10粒がすべてうまく成長してふっくらしたかぼちゃを収穫できるとすると興奮が収まらない。夏の収穫時期には我が家の食卓はかぼちゃ料理で埋め尽くされるに違いない。シンプルに煮つけやお味噌汁にするのもいい。インスタグラムにレシピを教えてもらってパンプキンパイやタルトを焼くのもいい。カレーに入れたりしたらほくほく甘くておいしいだろうな。今年はハロウィンパーティーを我が家で開催してもいいかもしれない。仮装はSuicaのペンギンにしたい。僕はSuicaのペンギンが好きだ。とてもかわいい。ちなみにSuicaのペンギンには名前がないらしい。名前がないというのはどんな気分なのだろう。おそらくとっても自由な気持ちになるのかもしれない。

 種が発芽することはいつもうれしいのだが、今回のかぼちゃの種の発芽はいつも以上にうれしいことだった。うれしさのあまり庭の真ん中で無意識にワーッと声をあげてしまった。ご近所さんに見られていませんように。この喜びはかぼちゃの種が発芽することにまったく期待していなかった、もっと言えば蒔いたことすら忘れていたことから来ているのかもしれない。そもそも、普段はごみ袋に入れて捨てていたものなのだ。蒔く時期や育て方なども特段下調べもせず、場所も畑の端っこの一番目立たなさそうなところにしたのだ。それなのに立派に青々とした芽を出しているではないか。ちゃんと園芸屋さんで買ってきたパッケージに包装された種たちには、特性に合わせて土を用意したり、ポットに入れて発芽するまではしっかり水分管理をしたりして手塩にかけえて発芽を手助けしてあげる。それでも発芽がうまくいかないことだって頻繁にありそのたびに努力が無駄になってしまったと少しがっかりする。それなのに何にもしなかったスーパーのかぼちゃの種はこんなにも立派に発芽しているのだ。まったく目をかけていなかった6人兄弟の末っ子が知らないうちに総理大臣になっていたというような感じでうれしい。


種が芽吹くのはアートだ。
昨日まで閑散として無機質だった場所に一夜で魔法をかける。
誰もが予想もしていなかったタイミングと場所で。
僕らの人生にもそんなことが起こるのではないだろうか。
生きているとあれこれ考えなければならないけれども、
まあそう肩に力を入れ過ぎず、日々小さな種を蒔いてみようと思う。


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