日記:4/15(楽しい夢を見たことがない)
夢、という言葉が使われる時、一般的にそれはポジティブな文脈中である。
夢を叶える。夢を見る。夢を追う。夢見心地。夢のよう。どれもポジティブだ。
夢、の前に、悪、という文字がついたとき、夢はネガティブなもの、すなわち悪夢になる。しかしその理論で言えばやはり夢そのものはポジティブな概念として存在しているといえる。
人はめいめいに固有の辞書を持つ。ナポレオンは「予の辞書に不可能という言葉はない」と言った。ナポレオンだけじゃない。あなたにもあなた自身の辞書があるはずだ。そして、その語彙は世界中の誰とも同一ではないはずだ。
僕の辞書にも当然「夢」という言葉がある。しかし他の大抵の辞書とは違って、その語義欄には「悪夢」の説明がなされている。
僕は幸せな夢を見たことがない。そんなことに最近気づいた。
昔見た夢を、妙に覚えていることがある。例えば僕がよく思い出すのは、大蛇に食われる夢。あとは弟が墜落死する夢。得体の知れない何かに追われる夢。そんな嫌な夢ばかりだ。
逆に楽しい夢を見たことがあるだろうか?記憶を辿る。辿る。......ひとつもない。誇張や卑屈ではなく、一回もそんなことはなかった。
フロイトは『夢判断』のなかで、夢はその人自身の深層心理を反映しているとした。それが本当ならば、僕の心の深層は相当淀んでいることになる。
僕がよく見る夢のパターンがふたつある。ひとつは仲間外れにされる夢だ。
バスケットボールの練習中に、仲間外れにされる。
いつも遊んでいた友達に、仲間外れにされる。
そんな孤独な夢ばっかり。
僕は11歳の頃仲良しグループにハブられた。休み時間にトイレに呼び出され、「脱退を命じる」と書かれた紙を渡された。その日から僕はひとりで家に帰り、ひとりで図書館で本を読んでいた。そのうち両親の仲も悪くなったり、部活のキャプテンの重責ものしかかったりして、ストレスで10円ハゲがたくさんできた。
そんな過去が未だにこびりついているのかもしれない。そんな記憶を思い出すことなんてほとんどないのに。人間は本当の意味で記憶を忘却できない。人が何かを忘れた時、それは記憶の引き出しの鍵が開かない状態である。適切な鍵が与えられた時、その記憶は蘇る。
もうひとつのパターンは何かに追われる夢だ。このパターンの夢は前者よりも曖昧な夢であることが多く、目覚めた時に残るのは「何か」に追われていたという不鮮明な像のみだ。
フロイトが正しいとすれば僕は人生で何かに追われていることになるが......僕を追いかけてくるものは何だろうか。親か?責任か?後悔か?いや、僕を追いかけてくるのは、僕自身である。
僕の僕に対する期待値はとてつもなく高い。なんでもできて然るべきだと思っている。だから、自分に課すハードルもあり得ないくらい高くなってしまう。跳べなくて、転んで、膝に血が滲む。その繰り返し。それだけの人生だった。身の丈にあったハードルを跳ぶ経験をたくさん積むべきだったのに、僕は最初から高すぎるハードルを越えようと必死だった。結果、何もできない人間が出来上がった。
幸福な夢を見られたならば、どんなに幸せだろうか。眠ることも幾分か怖く無くなるかもしれない。因みに最近は夢を見ていない。深く眠れている証拠かもしれない。とはいえ、僕が幸せな夢を見れる夜は来るのだろうか?