朝一番にすることの意味。
わたしは毎朝5時半前後に起き、歯磨きしながら、お湯を沸かし、夜アップしたnoteをチェックする。それが日課になっている。
文章を毎日書くようになって厄介だなと思うことは、主観と客観が入り交ざった文章に史実などを加えたくなった時。
そんな時は、ちょっとした覚悟が必要で、うっかり手を出すと、説明不足だったり、説明が多すぎたりで、解読不明な文章が出来上がる。しかも、くたびれた夜に限ってそんなものが書きたくなるのだから厄介だ。
で、頑張った結果、朝、その混乱ぶりにうんざりする。
今日、『ココ・アヴァン・シャネル』を観た。
最後に、おや、この作品は既に観ているじゃない?ってとに気付いた。最後のらせん階段のシーンでそれとわかった。その映画は、確か10数年前に観ている。セリフが少なく、伸びやかに描かれてたお気に入りの作品だ。違う監督の作品だとばかり思いこんで観ていたけれど、最後にそれと気づいた。
こうしたことが時々あるけれど、こんなことも嫌いではない。すっかり忘れていたとはいえ、不思議と初回より自分の目が大人になっていることに気づいたりする。
毎朝noteの文章を修正する。もちろん訂正なしの日もあるけれど、もう一度自分が書いた文章を読むことで、少しだけ言いたい物事が深化するような気がしている。
時の経過とは面白いもので、一度手放した文章は、鮮度は落ちていても、より身近になっている。
書くことは書き直すこと、そんなことを教えてくれた方がいた。確かに、書き直すことで、自分の中にあったもやっとしたものが形になることがある。
すっかり忘れていて観た映画も本もまた同じで、忘れてはいても、それはやはり自分の体の底の部分に眠っているのだと思う。だからこそ、それはより濃く自分の中に収納されていく。
どうして毎日書くの?と聞かれることがある。
どうしてだろうと思うけれど、やはりそこには意味があるのだろう。
朝stand.fmで話し、夜noteを書くを繰り返す。それは、小さなことのようでも表現する訓練になっている。
生真面目な自分が、少しだけ自分の縛りからはみ出せる時がある。一度それができるといい。表現はより緩やかくなるし、書くことからもわずかに自由になれる。
映画の主人公ココの目は、実に印象的だった。
書く人も・描く人も・作る人も・奏でる人も、皆、観て聴いている人たちだ。
そこにあるのに見えないことは驚くほどたくさんある。誰かが話しているのに、歌っているのに、聞こえないこともたくさんある。
人間にもアルゴリズムがある。
だからわたしは毎日書くのだと思う。
わたしが気になっているものをよりわかりやすく、より身近に表現して外に出せるように。それを誰かに届けられるように。
※最後までお読みいただきありがとうございました。
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※ありがとうございます。
※スタエフでもお話ししています。
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