どうして神社に行くのだろう
天気の良い朝だった。
動けそう!と思い家を出て、8時過ぎには日枝神社で手を合わせていた。
JRのCMじゃないけれど、
あ、神社に行こう!とふと思う朝がある。
今朝は、神社の外にスーツ姿の男性が沢山立っていた。何事だろう?と思いながらお詣りを済ませると、数分後には人数が倍ほどに膨れ上がっていた。
右胸上に金色のバッチが光っている。
衆参バッジも、都道府県の議員バッジも見たことがないけれど、それでも、きっとあの光る金色のバッジはそういった類のものだったはず。
ここは首相官邸を見下ろす高台にある。
日本人は神社が好きだ。
わたしの場合、自ら突き動かされるように神社に足を運ぶときは、小さくも、大きくも、
何かが終わった時だ。
良くも悪くも、まだ次には移れそうにない時、
わたしは朝神社へ行く。
けれど、誰もがきっと知っているのだろう。
わたしたちを取り巻く人やモノや時間や空間には、自分の力ではどうすることもできない力があるということを。
偶然とか、タイミングとか、そんな言葉で表わされることがあるけれど、
突如として、何かが明らかになることがあるし、
突如として、素敵な出会いがある時があるし、
突如として、全てが崩れる時がるし、
突如として、思ってもみなかった素敵なことが起こることがある。
しかも、この偶然もタイミングも、心がけ次第で全く違ったものになる、
そんなことを、わたしは経験で知っている。
それが、自分だけに起こっているとも思えない。
いつだっただろう、はっきりとは思い出せないけれど、
心から邪念のようなものが消えた時、偶然やタイミングが合いはじめた。
それは知らない。
けれど、人間の力ではありえないような偶然が次から次へと起った時、わたしは安心した。
あゝこれでいいんだな、と思えた。
邪念は邪魔なだけか、と思えた。
わたしは何かが終わった時、神社で手を合わせる。
わたしの姿など神様の側からは見えていないのかもしれない。
神様という存在だって、ただの思い込みに過ぎないのかもしれない。
それでも畏怖の念という言葉があって、わたしたちはその意味を誰に教わったわけでもないのに知っている。
これがなんとも不思議だ。
自分の中で何かが終わった時、どこかに向かって手を合わせたい。
それが、変化する手前の、恒例のわたしのイベント。
手を合わせて、ようやく次の小さなステップに進めるような気がする。
※最後までお読みいただきありがとうございました。
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