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【介護】筋肉は、思わぬことでつくのです。


今日は、朝から、母の付き添いで病院にいた。

こんな時、絶望的な気分になるのは、先生とのちょっとした会話で、2,3の検査がはじまることだ。

今日はそんな日だった。

朝の診察から、計3カ所の検査をグルグル回って、そして最後にもう一度、朝の先生に診てもらった。

今日もよく待った。

病院の付き添いはただひたすら待つのが仕事なのだ。

朝、家を出て、家に帰りついたのが18時過ぎ。

クタクタだった。


始まりは、母が先生に向かって数週間前の胸痛の話をしたことだった。

そういえば、2時間ほど母の体をさすった日があった。これは発作だと思ったけれど、母がどうしても救急車を呼びたがらなかった。

母には心臓に持病がある。きっと、血圧が上がると心臓に思いっきり負担がかかるのだろう。今年は台風の当たり年。心臓だけでなく、通年痛む足が休む間もなく痛み続けた。

気休めだと思われる方もしれないけれど、実は手を当ててゆっくりなでると患部がじんわりと温かくなる。それを続けていると、びっくりするほど温かくなる。手を放しても、ホカロンで温めた時のようには直ぐには冷たくならない。手当とは、きっと人が思うより効果があるのだろう。いつの間にか、痛すぎて厳しい顔になっていた母の顔が緩んでくるのがわかる。


そうそう、病院の話しの途中だった。

その発作以降、母は変わった様子もなく元気だった。ところが、母は救急車は嫌でも、検査だけはしておきたいのだ。母の気質をすっかり忘れていた。お陰で今日は病院に缶詰の日になった。

待って待って待ちくたびれて、そして、検査結果は特に異状なし。

やれやれ。


けれど、今日の病院で一つ嬉しいことがあった。それは母の姿勢の美しさだ。

椅子に軽く腰をかけ、背中を真っすぐ伸ばしている。

おおお~~と思う。

一月ほど前、母を見ると、丸く曲がった背骨の中に顔がうもれていた。頭一つ失った程の縮みようだ。

それでいて、一人で絨毯の上に横になって、腹筋や背筋をしたりしている。

それって、本当に意味があるのだろうかと思った。どんなに腹筋や背筋をしても、椅子に座ると、あるはずの所に顔が無くて、胸の辺りに顔がある。どこまで縮むか予測もつかない。恐ろしい。

わたしにとっては、年はとっても母はやっぱり母なのだ。贅沢かもしれないけれど、顔は定位置にあって欲しい笑。

しかも、背中が曲がることで、胃が圧迫される。だから、きまって食事中にげっぷが止まらなくなる。それを母は実に恥ずかしがる。わたしだって、そんな連続音、とてもじゃないけれどカバイキレナイ。

そこで、提案してみた。

「ねえねえ、もう横になって腹筋なんていいからさ、座ってるとき背筋を伸ばしてごらんよ。きっと世の中違って見えるよ!」

と。

それを今日、母がみごとに実践していたのだ。

提案した当初は、わたしが背中を支えていないと、体はキープできなかった。支えていた手を外すと、母がコロンと後ろに倒れる。笑いながら何度も背中伸ばしレッスンをした。あらあら、こんなになっちゃって、と。

母はちゃんとそれを覚えていて、今日はまるで80代になったばかりの女性のように、すまし顔で椅子に腰かけている。

な~んだ、できるんじゃない、と可笑しくなった。

筋肉はわざわざ作ろうとしなくたって、必要なだけついてくるってことなのね。

そして、人間、美意識捨ててしまったらお終いね、とわたしは心の中で思ったのだった。

まあ、わたしも、人のことは言えませぬが。


※最後までお読みいただきありがとうございました。


※スタエフでもお話ししています。


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