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「時」に線は引けるのか?

今日は、父の命日のご法要に、お世話になっているお寺へ行ってきました。

日頃、仏教からはほとんど遠ざかった暮らしをしていますが、年に2回、わたしたちは寺へ足を運びます。


冬には、書初めの般若心境を納め、墓参りをします。義父は法事中心です。

父の毎年のご法要は、すっかり我が家の年中行事です。これは、暮らしはじめた母のたっての希望でした。

個人的には空海が好きですが、残念ながら、宗教について習ったことはありません。

けれど、わたしは仏教にはほとんど抵抗がありません。これは、幼い頃から祖母に連れられてよく寺へ行っていたからでしょうか。


今日、ご法要のお経をあげてくださったお坊さんは、まだお若い方でした。

寺へ行くと、どの僧侶も、当たり前のようにスピリチャルを口にされます。今日もそうでした。わたしがスピリチャルと感じる言葉の多くは、きっとそのまま仏教なのでしょうか。

まだわかりません。

たとえば、僧侶の口から、

「お父様は、今日だけでなく、毎日あなたの傍にいらっしゃいます」

と言われます。

実に自然に口にされます。

すると、自然と父を強く感じるのです。


こうした言葉を耳にしたり、僧侶と共にお経を唱えたりする時、どこか時間という枠を超える感覚があります。

自分を傷つけてきた過ぎ去った多くのものに、価値を感じなくなった自分が今ここに存在していて、と同時に、今は亡き父が、生きていた頃よりさらに近くに感じられ、心が穏やかになり、喜びさえ感じるのです。

ですから、時間には、過去も、今も、未来もないのかもしれない、寺に行くたびに、そんなことを感じています。


生前、父は温かく、肯定的な言葉を使う人でした。

謙虚であれを常に見せてくれた人でもあったと思っています。



と言うわけで、本当はこんなお料理は口にしてはいけない日なのかもしれませんが、暑い日が続いていますので、ご供養の後、皆で美味しく頂きました笑。


あ、そうそう、父は、謙虚になることは我を手放すことだと言っていました。

亡き人の言葉が今も自分の中で生きています。

一年に一度父を強く思う日です。

そして、わたしはやはり、時間に後も先も無いのでは、と感じることが多いのです。


※最後までお読みいただきありがとうございました。


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