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構成の難しさ

目次が出来たなら8割は完成、なんて話をよく耳にする。確かに卒論やらではそれは本当だなと感じていた。そして、そんなふうに構成がさっさと、そしてカッチリ組み立てられる人は凄いなと思ったりしてもいた。

その頼りの目次がなんだか変なのだ。

昨夜、クラウドファンディングのページが9割ほどできた。もう一歩だと思い、昨夜は12時過ぎにフラフラになって床に着いた。

そして今朝、早くに目が覚めた。気分は良好だ。平日ならそのまま朝のルーティンで8時過ぎまで机に向かうことはないけれど、今朝は5時過ぎに部屋へ行き、コーヒーを飲みながら完成間近のページをチェックした。

すると、なんだかおかしい。

これから資料を数点差し込んでおしまいになるはずだった。それが、いったいどこに資料を差し込んだらいいのやら皆目見当もつかない。どの部分に差し込んでみたって、なんのための資料なのかさっぱり意味がわからない。

なぜだろう?とぼんやりと眺めていて気が付いた。

構成がそもそもおかしい。

愕然とした。あれほど必死で書いたというのに、わたしはいったい何を書いて来たんだろう。わたしの書いているページは、まるで卒論ではないか。こんなページ、いったい誰が読むだろう。

それから、朝の5時過ぎ、どの部分が必要ないのか、それとも足りないのか、はたまた順番が違うのか、考え始めた。

それから、全体の一部に手を加えた。すると、瞬く間に全体が崩れ始めた。

これは本気で取り掛かるしかないと思った。月曜日には第一回の審査に出そうと思っているというのにとんでもない事態だ。

それから家族が起き出す8時まで、完成間近のページは、どんどん崩れた。

わたしが気になったのは文章だ。ところが、今度は苦労して作った写真付きのバナーなど、あらゆるものがその文章にそぐわなくなってきた。あああああああ、なんてこった。

そして、夜の7時前、ページ全体が昨夜のものとは全く違ったものに変化した。

そういえば、若い頃、何度もしつこくデザインを変更したがるクライアントさんに泣かされた。けれど、そんな時、無茶を言い出すクライアントをわたしはいつだって緩~く説得した。こんなギリギリの状態で作り直しなんて絶対にない。

けれど、その面倒なクライアントさんが今は自分なのだ。あああああ、なんてこった。

こんな時は、腹を立てないよう、頑張り過ぎないよう、ご機嫌を取りながら進んでいくしかない。

今日はもう7時でおしまいにした。

やり過ぎるとろくなことがない。

わたしは一つ、信じていることがある。

noteに文章を書く時も、スタエフで話すときも、ご機嫌な気持ちでいることにしている。かつて針仕事で文句を言いながらボタン付けなどをすると、それを着た人が怪我をするなんて話しを聞いて怖いなと思ったことがあった。

PCに向かう時、わたしはその針仕事をいつも思い出す。

だから、書くときも話す時も、神社に行くような気分で画面に向かう。汚れた気持ちや感情が乗らないよう注意を払う。

今日は慌てたけれど、それでも、大きく構成を変えられた。まだ明日がある、そう思って今日はやめにした。

そりゃ大変だったけれど、いつか振り返るとこれも良き思い出になるだろう。

それにしても、文の流れでこれほどデザインが変わるとは。

これが写真やデザインを加える文章でよかった。言葉や想いを誰かに伝える、たったそれだけのことだけれど、これほど違ってくるのだ。

それは、文字だけではきっと気がつかなかったに違いない。デザインを加えたことで、見せ方がどれほど変わったか自分でも確認できたのだ。

嵐のような1日がまたすぎた。けれど、これは面白い経験だったのかもしれない。


※最後までお読みいただきありがとうございました。


※スタエフでも話しています。

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