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追憶 艶やかに笑う女

「いる?落としちまったのだけれど」
ぽってりとした赤い唇が緩いカーブを描く。

私が首を横に振って拒否すると、女は「残念」と言いながらお菓子を口の中に放り込んだ。
意外だった。ツンとした表情を崩そうとしないこのプライドの高そうな女性は、落としたお菓子をそのままごみ箱に放り込むのではないかと思っていた。
おばあちゃんの「食べものを粗末に扱うな」という口癖をこの人も聞いて育ったのであろうことが窺い知れて、気付かれない程度にうっすらと笑った。


女性は、田舎の町であまりにも浮いていた。

香水を振り撒き、ピンヒールをコツコツと鳴らして颯爽と歩く女性を初めて見た。突然玄関に仁王立ちで現れたその女性は何やら高級そうなお菓子をお土産に持ってきたのだが、大人たちは誰も手を付けないので女性とわたしの2人だけで食べることになった。

夜、私がお風呂を沸かそうと廊下に続く引き戸を開けると、いつの間にかあの女性が横に立っていて、キイキイと音を立てて鳴るお風呂場の戸を揺らしながら「まだこれ使ってるんだ」と呟いた。

私の家は未だにステンレスの風呂釜だし、灯油を使うタイプの湯沸かし器なので温度調節が非常に難しい。冬は特に蛇口から出てくる水とにらめっこする時間が長くなり、湯掻き棒が手放せない。
(ちなみに夏場は海から帰ってお風呂に入るとき、かけ湯を念入りにしないと風呂釜の下の方に砂が溜まってしまい、後続の人からしこたま怒られる)

私がお風呂から上がると、居間は扇風機の音が響くのみだった。

ひょっこりと台所の方から顔だけ覗かせた女性はちょいちょいと手を振って私を呼び寄せた。
女性はしばらく冷蔵庫の中を物色していたが、ビール瓶を一本引っ張り出すと扉をパタンと閉め、にんまりと笑って言った。
「内緒ね。そらっ、賄賂あげる」
渡されたのは冷蔵庫でキンキンに冷やされたラムネの瓶であった。
女性はおばあちゃんとも私とも違う、白魚のような手と表現するのに似つかわしい手をしていた。白く細くしっとりとしていて、日焼けも、あかぎれの一つも見当たらなかった。

「ありがとう」
冷えたラムネはとてもおいしかった。

最後に電気よろしくねと女性は言い残すと、隣の和室に敷かれた布団に潜りこんで寝てしまった。女性が使っていたガラスのコップには口紅が残っていて、ハイヒールと同じ色だなとぼんやり考えながら洗い場に下げておいた。

次の日の朝、女性は二日酔いを微塵も感じさせないほどぴかぴかに身なりを整えていて、今日ここを発つのだと悟った。駅までお見送りをしたのだが、その短い距離でもやはり彼女はとても目立っていた。片田舎のこの町で、赤いピンヒールをカツカツと鳴らして髪を風に靡かせながら歩けば目立つのも当然であった。
その一方で、自分の好きな格好を貫く彼女を素直にうつくしいと思った。周りの大人たちがあんなケバケバした女、と陰で噂をしていることは知っていた。彼女の印象は、最初の方こそ周りの大人たちによる悪いイメージの刷り込みがあったが、ふたを開けてみれば基本的にさっぱりとした性格をしていて、少しだけ己の欲に忠実な人であることがわかった。

海も川も星空もただそこに存在しているだけなのに、己の心の持ちようで景色が変わって見えてしまうことがある。
おそらく「うつくしさ」とは、自分の心の中にある定規で測って良いのだ。

私は、女性の正体についてある程度検討がついていた。
私の人生には、本来序盤で登場しているはずの人物が2人ほど足りない。

駅で彼女は、私に「元気でね」と言った。
私は「ありがとう、お姉さんも」と返した。

女性の口元がわずかに歪んだのが分かったが、続く言葉は無かった。

当時の私が口にした返答は、あの場における最適解だったと今でも思う。彼女がこの地を去った理由と、この地に戻ってきた理由はおそらく一つの事象に帰結している。それを解き明かす勇気を持ち合わせていなかったのは事実、そして私はおそらく彼女に対して好意と、それと同じくらいの嫌悪を抱いていた。
女も私と同様、この日の光景を生涯忘れることのできないものになれば良いと思ってしまった。

ちょっとした意趣返しである。


後に分かったことであるが、女は再婚していた。
私に会いに来た日の数日後に籍を入れていた、らしい。

親に向いていない人というのはどうしても一定数存在する。田舎暮らしが肌に合わない人も同様に。
もう2度と帰ってこないと言って田舎の街を飛び出した少女が、気まぐれに見せかけて生家に帰って来たのは彼女なりの誠意と優しさだったのだろう。

いつもはこんなに主張の強い色は付けない。どうせマスクに隠れて見えないのだし、と思って差した赤い口紅はなかなかどうして馴染んでいた。
不帰の客となった彼女の、私と血が繋がっていて似合わないわけないでしょう、と悪戯っぽく笑う声が聞こえた気がした。










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