身体感覚を考える(2)気づくことの難しさ

 自分でメガネを外して,目をしきりにこすっていたという記憶もあるので,私は「目がしょぼしょぼする」という身体感覚に全く気づかなかったわけではない。それなのになぜ,放置していたのだろうか。もちろん一番の理由は私が不精なためではあるが,私が目の辺りの身体感覚に注意を向けて,それ自体を「気になること」としなかったからだろう。
 この表現はちょとわかりにくいと思うので,もう少し説明する。私がだるさを感じている最中には,私にとって「気になること」は,だるさという身体感覚ではなく,だるさの結果,派生的に生じる「話を終りにして帰ってもらえないかな」という患者さんに対する考えや気持ちだった。
つまり「自分はいまだるさを感じている。このだるさという身体感覚のため,私は患者さんのくどい話に耳を傾けるゆとりがなくなり,『話に耳を傾けよう』という当初の私の気持ちが『話を終りにして帰ってほしい』という気持ちへと変化しているのだな」とは理解しなかったのだろう。
問題の源は身体感覚にあるのに,その身体感覚によって派生的に醸し出された気分や考えの方が「気になること」となり,自分自身の言動もそれに翻弄されることは日常的によくある。
 たとえば幼児は退屈したり,疲れるとむずかったり癇癪を起こしたりしやすいが,これはその好例であろう。もちろん,大人にも同じような現象はあり,たとえばせっかく家族や恋人と仲良く旅行をしていたのだが,退屈したり疲れてくると,ささいな失言がきっかけでお互いを罵り合う大喧嘩になり,せっかくの楽しい旅行が台無しになったにすることがある。もっとも,退屈感やだるさといった身体感覚が引き金となって普段は押し殺していた相手に対する気持ちが表現できたのであれば,罵り合いもそれなりの効用があったと言えなくもないが。


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