対人的な生命力 Nさんが退院して3日目。入院前よりなんとなく視線の合う回数が少なかったりぼーっとしている時間が多かったり、あまり希望を主張しなくなったりなど様子の変化がみられた。ADLはほとんど低下していないがコミュニケーションの反応が違う、認知症が少し進行してしまったのかと心配した。 退院から3日間は感染対策のため居室対応としている。窓から外の景色を眺めて「きれいな景色やなぁ」「あそこに私の家がみえるわ」など遠い目で眺めているのが焦点があいまいで心配だった。 さて、
最近お菓子を食べないようにしている。以前はひどいくらい馬鹿食いしていて、ファミリーパックのチョコレートを1日で全部食べていたりした。 これは完全に依存症だと感じたので今はなるべく食べないようにしている。 そのおかげか、蕁麻疹がでなくなった。蕁麻疹は数年前から出たりなくなったりを繰り返しているが、お菓子を食べなくなって1週間ほどでピタッと止まったので薬も飲む必要がなくなった。まあ、どこまで因果関係があるのかは不明だが、やはり食べないほうが健康には違いない。 スーパーでは
瞑想を3ヶ月取り組んだ、といっても途中1週間くらいやっていない期間があったが、ひとまずいま現在取り組みできているので感想を述べる。 ・仕事中のイライラが少し減った 以前よりも柔軟になった気がする。相手の話す言葉と共に表情や動作を確認するようになった。そのおかげで言葉とは違う表現の部分に気づいて何を返事すればよいのか、工夫できる機会が増えたように思う。そのおかげで感情的な対応に陥ることはやや減った。 ・瞑想中の時間が短く感じる 15分の瞑想が短く感じるようになった。自
はしもとみおさんの本を頼りに木彫りの猫を彫ってみる。ややミスした部分もあるが満足いく出来栄えである。レターボックスの上で柴犬と一緒に飾っておきたい。 次回への課題としては、マズル部分の形をよくしたい。口元から下の部分がシャープになりすぎている。もう少しどっぷりした感じであごをのせたい。後頭部と背中の間を緩やかに、撫でやすい形状にしたい。 眼に関して、このままの塗りも味があってよいが、UVレジンを試してみてもよい。 しばらくはこの大きさくらいのシリーズで犬猫を増やして
恵文社一乗寺店で開かれているはしもとみおさんの巡回展に行ってきた。 はしもとみおさんの木彫り彫刻は最近しったのだが、ちょうど京都でも3月1日から偶然見られることを知り、すぐに見に行った。感想としては、実物をみて非常に勉強になった。 毛並みのタッチが想像よりしっかり残っている。顔や手足はタッチが弱めですべすべした感じ、胴体やしっぽは荒々しい彫刻刀のタッチが残されている。肉球は丸く丁寧に彫られている。猫の頭はけっこう丸いものだと改めて再認識した。色は木の下地が残っている
まさか完結せずに3巻へ続くとは。 今回もスリリングな展開と人物のリアクションの掛け合いがマッチしていて面白い。 私が生まれる50年前はずいぶんとこの物語のような世界だったのだろうと想像する。おぞましい何かの隠喩となっている蛇やトケイソウ?の職員とか案内人のカエル、氏神様だとか。どれも理屈のない登場の仕方をするが、存在には妙に説得力がある。子供の眼を通してみる世界はこんなふうに見えたに違いない。私が生まれたころにはもうこんな世界はずいぶん忘れ去られてしまったけど、まだ遺
素人創作?構わないじゃないか、もっとやればいい。 色々創作し始めて7年くらい経った。創作の分野は昔と変われども、今日も木彫りを取り組んだ。ここ2年くらいは好きなように絵や粘土や木彫りで楽しんで創作できている。その心境に至った経緯を記したい。 学生時代から社会人2年目まではイラスト制作してSNSにあげていた。最初はアニメの二次創作をやっていた。初めて絵描き友達ができたり互いに通話しながら作業したり楽しい時間だった。同人誌も作ったし、何件かイラスト制作の有償依頼も頂いた
あべのハルカスにて開催されている円空展みてきた感想。 荒い削りの彫刻がむしろ想像を膨らませる彫刻だった。不動明王などの特徴ある表情が面白い。地蔵菩薩などはかなりユニークな表情をしている。両面宿儺は光背も含めて平面と立体に調和がとれていて洗練された作品だった。 円空の膨大な作品(6000くらい発見されていたと思う)を聞いて想像するに、生活と彫ることが一体となっていたのだと思う。木っ端にも仏が宿るという精神を体現して彫ってしまうのは素敵だ。多くの人に見られることは想
健やかに生きていくうえで迷わないことはかなり大事だと思う。そして迷わないための前提として「正しいことを行う」が必要である。 ここでいう正しいこととは正解とイコールではない。間違っていたとしても後から振り返って後悔しない。トライ&エラーのトライの部分。 迷わないということについて、習慣化されているものは概ねそうだ。歯磨きで上の歯を磨き始めて下は磨かないということなんてない、途中でやめない。カレーを作り始めて具材を切って終わるということなんてない、途中でやめない。行動し始め
最近、朝起きた直後のまだ布団に入っているとき、呼吸がかなり浅いことに気づく。そこで布団の中で5分くらい深呼吸してから身体を動かし始めると少しエンジンがかかって楽な感じがする。 呼吸が浅いから動き出しずらいのか、動きずらいから呼吸が浅いのか、卵が先か鶏が先かみたいな話だが、どうも連動しているのは分かる。 作業に集中しすぎるとふと呼吸がかなり浅くなっていることに気づく。スクリーン無呼吸症候群というらしい。なるべく姿勢を伸ばした状態で座り適宜休憩を入れるようにするのがいい
わたしという存在はどこの会社に勤めているかとか、家族がいるだとか、ある政党を支持しているだとか、そういうのとは別のところにある気がする。 今現在のわたしはキーボードをカタカタと鳴らしながら文字を入力しているわけだが、これは何のためにやっているかというと何となく集中できなくて心の中にある鬱憤のようなものがあって書いている気がする。 夕方外を走っているとふと何も考えていない時があることに気づく。普段は景色や足の裏が接地する感覚、足のだるさ、それに呼吸、そんなことに意識をとら
今年になってから習慣化したい事の一つとして瞑想に取り組んでいる。やれていない日もあったが概ね1か月取り組むことができたので効果などの感想を記したい。 ・だらだら習慣時に気づきが増えた スマホでダラダラ動画を見ているときに、ふと「あれ、何をするんだったけ?」と気づく機会が増えた。メタ認知と言えば大げさだが、自分のやっている行動について少し俯瞰的に確認する機会があった。以前は平気で何時間も動画を見ていたりして、途中で気づいてもやめられなかった。しかし、この1か月はわりとすん
色々な物事を新しく習慣化するとき行動を継続する必要がある。しかし、頭の中で計画したことが上手くいかず三日坊主になるような失敗は多々あるわけだ。とはいえ、年齢を重ねるにつれ、少しずつ自己理解が進むにつれ習慣化に関する経験ができてきたように感じる。 若い頃の失敗は概ね「思考と行動との溝がどれくらい大きいものであるか、無知であった」という理由に帰結すると振り返る。本を読んで瞑想しよう、筋トレしよう、英語勉強しよう、そして人生をかえていこう。このように意気込むはいいが実際の行動に
自己啓発レビューはいつ書かれているのか。これは概ね本やセミナーを受けた直後に書かれていることが多い。最もモチベーションが高い地点で、または未来への計画として書かれていることが多い。 対して家電レビューはいつ書かれているのか。これは概ね家電を購入してからある程度の時間を経てから書かれていることが多い。家電によって生活がどのように変化してきたか、過去について書かれていることが多い。 この二つの違いはなぜ生まれるのだろうか。というより、自己啓発に関して、なぜある程度の期間実
自分という存在は多層で構成されているのだから、どれを「ほんとうの私」と定義しようと試みてもしようがない。風邪をひいて不安なときの私、走っている時の私、暴飲暴食の私、仕事中の私、一人で生活している時の話、人と会ってるときの私、どれもその時々の部分ではあるけれどもけっして全体ではない。 ましてや悩みというのはもっと取り扱いの難しい代物だ。悩みと私をイコールで結びつけてしまうと大変つらい思いをする。悩みに対しては距離感があったほうよい。どんな妄想のような悩みであれ、実際の痛みを
いろんな場所から逃げてきてよーやく分かり始めたのは、やっぱり人間どこかで居場所がほしいってこと。 以前いたお友達とは一緒に盛り上がれなくなったし、推しだといって応援する気力もなく、好きだったアニメや漫画は少しずつ見なくなり、それでもまだしがみついているのって何か理由があるんだと思う。 何かがうらやましいってことじゃなく、もっと根本的に何を求めて生きてるんだって話。 絵を描かなくてもいいってなったけど、依然として絵は描いてるし、文章なんて書かないって捨てても、こうして