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表現について

表現について


 この世に何ひとつ無駄なものはない。それを知らしめるべき「存在」達がその意味を悟らず「達観」した意識を持ち、その視点から人間を観察し、分類し、価値や意味を決定する。――これが現代人の、現代に生存する多くの人々の世界観へ流出され、病のごとく「相対的世界観」として魂を支配しつつある。環境となりつつある。――人々はそれぞれが「個性」を主張し、自由を主張し、己が身を守るために自己にとって都合の良いものだけを利用し、――自己を拘束するものは人権を無視するものと、ますます自己中心的になりつつある。自由の名のもとに、その逆の道に迷いつつあるを知らず、――。

 問うことではなく、与えられることが当然となるこの時代にあって、いかに生きるべきかを常に自らに問い続ける者は、すべてを甘受する忍耐と不屈の意志と、深い真面目な愛とをもって、芸術家の感性を失なわず、日常の闇夜の光となるべく歩み続けることしかない。
 自由の意識を持てば持つほど、意識の深化拡大に伴なって責任は重く厳しくなる。その視点からは通常の意味での「個性」など、ピカソではないが泡沫にすぎぬ。だが、その事を知れば識るほど人々への、同胞への愛は深まる。さらに言えば、ミクロコスモスとマクロコスモスとの融合へと至る道を創造する表現を常に苦心する。無論、自然を含んでいることは自明である。どんな人間の魂の裡にも神性、仏性は宿っている、眠っている。それを常にゆさぶり、刺激し続ける事。その表現手段はそれぞれ多種多様にある。その人によって、その人の才能や能力の差こそあれ、それぞれ無数に存する。境界は無い。限界も無い。――ただ黙々と歩むしかない。

 時代の転換期というものがある。それは現象的にも秘めやかに同時進行していく。そしてその両方の進行がクロスし交わり、現われ始めている。異質と思われた思想や対極にあるとされていたものが結びつき活動する時代となった。だが、それを実現しうる能力を有する存在は今日では芸術家なのである。むろん、真の芸術家でなければならないのであるが、そこいらの、いわゆる「芸術家」ではない。分野にこだわり、意味にこだわり、低次元で争っている表現者は足を引っぱる事はあっても、その「覚悟」は無い。くだらぬプライドの持主は常に自己に対する厳しさを持たぬ。外に対して不幸、不満ばかり言う、思う――。小林秀雄が「ついに人生とは、はかない即興にすぎぬのか」と言わざるを得ぬような手合いが多すぎるのである。

 すでに「時代精神」は灼熱しつつある。人は常に「事件」にあって、形となって始めて気づき始める。それも漠然と、本能的に。だが、運動がおきた時はもう時すでに遅しなのである。――人々は流れのなかになす術もなく巻き込まれるだろう。訳も分からずに、――。そのスピードは急速に増している。自己の運命を甘受出来ぬ者にはそれすらわからぬ。だが、もう自覚している者のみが「成しうることを成す」しかない。――時代の流れの熱が人々の魂を焼き始めている。断じてあせるまい。――くり返さぬために、その努力しかし得ないのは残念だがやむを得ぬ。人は焼かれて始めてそれに気付くだろう。――自覚している者は成しうる事を為すのみである。

 これを読んでいる読者は私が何を言いたいのか良く分かるまい。対岸の火事を見ているように見ているからである。だが、すでに火事は対岸ではなくこちら側に飛び火している。それは、形となり、運動となった時に分かるであろう。心して、眼をかっ開いて良く見ているがいい。――今のなかにすべてが含まれている、過去も未来も、――。


 そこいらの中途半端な神秘家や、低レベルの宗教家達の知り得ぬ所でその流れは始動している。大きな、それこそ宇宙的規模の流れを含んだ運動が顕現する。かつての秘教が顕教化する。それも日常レベルで、――。


 戦いは熾烈である。あえて言おう「民族」の使命というものがある。その使命は我々一個人個人に託されている。時はすでに満ちている。

――我々次第で命運は決まるのだ。よく観るべき事を知るべきである。

一九九〇年一月九日

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