それでもこの冷えた手が

週が明けると節分だ。そろそろ柊に鰯を手配しなくては。面倒だが縁起物だ。仕方あるまい。そんな事をぼんやり考えながら駅の改札を出た時だった。ターミナルの側道に、機械仕掛けの腕がいた。かの戦争も今は昔。以前はちらほらと見かけた駅に暮らす子供もいつのまにか消えた。かつて彼らが座り込んでいた辺りを、その腕はキイキイと音を立てながら這っていた。

土台となる四角い箱の上部には球体状の肩関節。そこから伸びた鋼鉄の腕部分には、人を模したのであろう肘関節に手首の関節が見受けられる。まるでナイト・テーブルに取りつけるアーム式の読書電灯のようだ。ひとつ違うのは、手首の先の掌。もちろん電球ではない。さらに言うなら、クリップのような形状でもない。しっかりとした五本の指がそこにはあった。見る限りでは、左手だろうか。

腕は赤子が躄るように掌をしっかりと地面に着けては、ずりっ、ずりっと箱を引きずって進んでいく。薄く雪が降り積もった道路には、箱に沿った轍が作られていた。方向から考えると、乗合バスの停留所にでも行くつもりなのだろう。私は腕に声をかけた。

「もし、そこの腕の君。待ちたまえ。ひょっとして君は乗合バスに乗るつもりかね」

腕はぴたりと歩みを止め、ぐるりと肩関節を回してこちらへと向き直る。そして「自分の事か」と確かめるように人差し指を立てて指さして見せた。どうやら話は通じるようだ。振り返ったという事は、視界のような物もあるのだろう。

「そうだ。君だ。君は知らないかもしれないが、ここに立ち寄る乗合バスは日に二本しかないのだ。この時間であれば、次に来るのは明日の十時。この寒空の下、夜を越すのは、いくら鋼鉄の体の君でも厳しかろう」

私の言葉を聞いて、腕は落胆したかのようにかくんと掌を垂れた。そして、気を取り直したのか、ぺこりとお辞儀してどこかへ行くのか掌を地に着けた。が、そこでぴたりと動きを止めた。

様子を見ていると、掌を上げ、ガス灯のほうをぼんやり向きながら身じろぎもしない。その姿はまるで、途方に暮れている少年のようだった。

「腕の君、もし行く当てがないのなら」

私の声に、キイ、と音を立てて腕が振り返る。

「もし君さえよければ、今夜は我が家で過ごさないか。なに、ちょうど車を呼ぼうと思っていた所でね。一緒に乗って行くと良い」

腕はパッと掌を広げ、嬉しそうに手首を縦に振った。

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「社長、遂に子供だけでなく機械まで拾って来たんですか」
「ははは。そう言われるとそうだね。石渡くん以来だよ」

迎えに来てくれた石渡くんの運転する車に乗り込むと、早速腕の事を聞かれた。事の次第を話すと、石渡くんは笑ってそんな軽口を叩いたのだった。

石渡くんも元々は「駅の子」のひとりだった。十数年前、駅へ向かうたびに目にする彼がやつれていく姿を見かね、うちで引き取ったのだ。

「懐かしいな。もう十年か二十年は前かね。あの頃は大所帯だったね」
「ええ、そうでしたねえ。タク兄もヒロ兄もいて、お嬢さんに、それに奥さんも」

私は微笑んで頷く。あの頃は妻も健在で、娘もまだ家にいた。その他、引き取った2人の元「駅の子」も。私たち一家は、小さな板金の工場を営んでいたのだが、そこに石渡君が加わり、総勢6人の所帯となった。やがて娘は嫁ぎ、「駅の子」であった山崎くんと剣持くんも独り立ちし、妻は他界した。さらに昨年、残った石渡くんも所帯を持ち、街の工場へ転職することとなって、家を出た。

「仕事はどうだね。奥さんともうまくやっているかい?」
「はい、なんせ社長に鍛えられた腕がありますから。問題ありません。家内とは……まあ、ぼちぼちやってます」

運転席の照れくさそうな顔は、見違えるほど大人びていた。かつての末っ子とは別人のようだ。石渡くんは最後まで家を離れることを躊躇っていたが、街の工場はうちよりも倍ほども給金が出せる。私は喜んで彼の門出を祝い、送り出した。以来、私は一人で細々と工場を回している。

とはいえ、幸いなことに一人気ままに暮らしていけるだけの貯えはある。半分は隠居のようなもので、今では、ふた月に1度ほど注文を受け、採算度外視で好き勝手に板金を絞ったり叩いたりしては花瓶や鉄瓶を造る日々を送っている。

たまに出かける時には、こうして石渡くん達に世話になる。車が無ければ駅までの行き来にも難儀をする程の田舎に住む身としては、ありがたい事であった。

腕は、そんな私と石渡くんの世間話を、掌を右に左に動かしながら聞いている。時折、窓の外を流れる景色に気になる物を見つけでもしたのか、ゆっくりと掌で追っていた。

「よし、着きました。社長、本当にここまででいいんですか?」
「ああ、ありがとう。腕くんは私ひとりでも運べるよ」

その言葉を聞いていたのか、腕は私がドアを開けると、ひらりと飛び降り、自分でずりっ、ずりっとひと引き摺りしてみせると、こちらに振り返った。

「これは失礼。運ぶまでもなく自分で歩けると言いたいらしいね」
「そのようですね。ふふ、元気な奴だ。では、僕はこれで」

私たちは石渡くんのホンダを見送った。そして、腕の掌と台座の泥を綺麗に拭き取ると家に入り、居間のちゃぶ台へと腰を落ち着けた。

「さて腕くん、いろいろ聞きたいところだが、君は喋れはしないのようだね」

ちゃぶ台の向かいの腕は、こくりと掌で頷いたが、その後に、なにかを摘まんでいるような仕草で空をなぞりだした。

「それは……ペンかね? ひょっとしたら君は、文字が書けるのかね」

腕は「それだ」と言うようにこちらを指さすと、嬉しそうに頷いた。早速私はノートとペンを探し出し、腕の前へと置く。

「では腕くん、君はどこの工場から来たのかね。帰るあてはあるのかい」

私が尋ねると腕は返答を書き始めた。その速度はかなり遅いものの、ノートの上に几帳面な角ばった文字が書き連ねられていく。

《ワカリマセン キオクガナイノデス》
「キオク……記憶か。覚えていないということかね。それは困ったね」
《ハイ デンチギレデ サイキドウシタノダト オモイマス》
「電池切れ。君は電池で動いているのか」
《ハイ タンイチデンチ ロッポンデス》

腕はそこまで書くと、座布団を降りて傍まで這ってきた。そして、台座の一部分を指さす。そこには、小さな取っ手が付いていた。

「ここに入っているのかい。開けてもいいかね」

腕が頷くのを見て、取っ手を引っ張って蓋を開けた。なんの変哲もない単一電池が六本、助六寿司の折詰のように並んでいる。

「これは驚いた。だが、つまるところ君は今、帰るあてがないという事だね」

蓋を閉めて尋ねると、腕はしょんぼりと頷く。

「ならば、しばらくはうちに居るといい。電子工作の事は良くわからないが、換えの電池の用意くらいなら私にもできる。ゆっくりと身の振り方を考えれば良いだろう」

腕はびっくりしたように掌を広げると、何度も何度も掌を下げた。

「ははは。そんな大げさな。しばらくはよろしく頼むよ。腕くん。……しかし、そうだな。そうなると君の事を何て呼べばいいかな。名前はあるのかね?」

腕は掌を左右に振って、かしげて見せる。

「わからないのか。では、こうしよう。小さな読書電灯のような君だから、小電灯……小灯……いや、それよりもシンプルに『ライト』でどうだろうか」

腕は掌を広げ嬉しそうに頷くと、足早に座布団へ戻ってペンを取る。

《ヒダリテノ ワタシガ ライト デスカ!》

「ははは。そう言われるとそうだね。君はレフト・ハンドのようだが、名前はライトだ。気に入ったかね。よし、今日からよろしく頼むよ。ライトくん」

私は左手を差しライトと握手した。ライトは嬉しそうにぶんぶんと腕を振る。その鋼鉄の掌は冷たかったが、私にはとても心地よく感じた。

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私はライトの為に、小さなころの付いたブリキの台車を拵えた。少年達の間で流行のスケート・ボードとやらを参考にし、さらに予備の電池が六本格納できる箱を備え付けた。ライトの土台にベルトで結わえてあげると、からからと音を立てて部屋中を走り回っていた。

しばらく一緒に過ごしたが、ライトは相変わらず何も思い出せてはいないようだった。毎日一緒に朝餉の卓に着き、工場へ行って作業をする。もちろんライトは食事や作業はできないが、私に付いてきては、目の届く場所からこちらを覗いたり、何やら思案をしたり、しきりに掌を動かしたりしていた。

仕事が終わると、家に帰って座布団を並べてTVを見る。ライトの好きな番組はクイズ番組だ。番組が始まるとノートとペンを持ち出し、懸命に回答を書いては見せてくる。晩酌をしている私も、つられて一緒に考えるのだが、ライトとの勝負は、五分と五分といった所だった。

しばらくそんな暮らしが続いたある日の事だった。工場から帰宅し、娘が送ってきたチョコレイトを摘まんでいると、ライトが何やらしょんぼりとしている。

「ライトくん、どうしたのかね。電池の残りが少ないのかい。そうであれば、交換するとしよう」

私が訊ねると、ライトは左右に掌を振る。

《イエ チガイマス ワタシハ ジブンガ ナサケナイノデス》
「情けないとな。どうしてかね。記憶が戻らない事なら、焦ることは無い」
《アリガトウゴザイマス デモ ソウデハアリマセン》
「記憶の事ではないのかい。では、いったいどうしたというのかね」
《ナニモ オヤクニタテズ ムダニ デンチヲ ヘラシテイルジブンガ カナシイノデス》
「そんな事を考えていたのか。ははは。いや、失礼。そうか、では明日からライトくんに手伝ってもらえる仕事を探すとしよう」

ライトは、ぱぁっと掌を広げ、何度も何度も頷いた。

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安易に考えていたライトの仕事探しは、思いのほか難航した。ライトはあまり力が無く、精密な動作も難しい。なかなかに遊びが多い構造なのだ。私がやっている絞りや叩きは、それほど力がいるというわけではないが、絞り加減や叩き加減が肝となる。向いているとは言い難い。

その上ライトは片手。どうしても「一方で固定し、もう一方で作業をする」という動作ができない。私が押さえていれば、絞り機のレバーを動かしたり、ハンマーを振ったりといった作業は可能だが、それは言わば二人羽織のような物。とても良い出来の製品は期待できない。

それではと、経理事務を任せてみた。すると、書き込むスピードは遅いものの、正確に帳簿に記帳する。機械仕掛けだけあって計算も確かだ。これはしめた物だと私もライトも喜んだのだのも束の間、工場の事情が災いした。我が工場では、帳簿を付ける取引というのが、ふた月に一度程しか無いのだ。

板金や機械・工具は既に揃っており、日々買い足すような物も販売する物も特に無い。記帳できるのは、せいぜい水道光熱費に電話料金くらいのもの。だが、それさえも記帳は月に一度きり。結局ライトは何もする事が無くなってしまい、また元のしょんぼりに逆戻りだ。

そこで私は、近所の工場や商店に声をかけ、ライトにできる仕事が無いかを尋ねて回る事にした。

ツボ押しであればどうだろうかと、按摩の手伝いをさせてみる。やはり力が足りないらしい。そのうえ、手が冷たくて吃驚する、との事でうまく行かなかった。

板前であればどうだろうかと、下拵えやあしらいを手伝わせてみる。板場の場所を取らないのはいいのだが、作業が遅く、野菜や魚の身がぐずぐずになってしまう、との事でうまく行かなかった。

ならば、経理事務であれば大丈夫だろうと手伝わせてみる。記帳は正確なものの、やはり作業と意思疎通の速度が問題となった。それに加え、正直すぎて都合が悪い、との事でうまく行かなかった。

その他、何人かの知り合いに頼んでみたものの、結果は全て同じ。ライトはすっかり悄気ていた。心なしか、帰宅時のころの音も元気が無い。

「ライトくん、そう気にすることは無い。また明日にも探そうではないか。ささ、元気の無いのは電池が減っている所為もあるのだろう。交換するとしようか」

居間に腰を落ち着けた私がそう言うと、ライトはのろのろとやって来た。胡坐をかいている私の足の上に、ぱたりと腕全体を投げ出し、電池入れの取っ手をこちらへと向ける。ひんやりとした掌は拗ねたようにそっぽを向き、腿の辺りへ凭れかかっていた。蓋を開け、電池を一つ取り出した時、ライトが物憂げに掌を持ち上げた。私は思わず、電池部分を手で押さえる。

「こらこら、危ないではないか。電池が全部外れてしまったらどうするのだ。動けなくなって、また全て忘れてしまいかねないぞ」

ライトは、ぴくりと腕を震わせると、卓袱台の上のペンを取った。

《オネガイデス デンチヲ スベテ ヌイテクダサイ》
「何を言うんだね。止まってしまうではないか」
《ソノママ 30ビョウモ スレバ ワタシノ キオクハ ショウキョサレマス》
「ライトくん」
《ソノアトハ ドコカヘ ステテクダサイ オセワニ ナリマシタ》
「捨てるなどとんでもない。そう自分を責める物ではないよ」

掌を覗き込むようにして諭すと、ライトはふいっと横を向く。

「ライトくん、君はきっと体が弱っているのだ。弱っている時は、気分も沈んで自棄になってしまうものだ。よしわかった。電池交換を終えたら、今日は外食をしよう」

「外食」という言葉に興味を持ったのか、ライトは掌をこちらに向けた。

「ああ、外食だ。人は、弱った時には美味しいものを食べるものだ。君は食べることはできないが、その雰囲気だけでも味わえば気持ちも変わるだろう。善は急げだ。出かけるとしよう」

手早くライトの電池を交換し、襟巻を首に巻き付け外套を羽織る。鳥打帽を被り終わると、ライトを連れて久しぶりの外食へと出かけた。

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「お待ちどう様です。ハンバーグ・ステーキです」

目の前のテーブルに、小さなフライパン様のステーキ皿がことりと置かれた。熱く熱せられた鉄板の上では、ふっくらと膨らんだ俵型のハンバーグがジュウジュウと音を立てている。立ち上る湯気の向こうには、鮮やかな朱色の人参と、皮付きの男爵芋が見える。さらに、その脇には、玉葱と醤油を使っているという謳い文句のソースが添えられていた。

「どうだい。おいしそうだろう。実はね、この店のステーキ皿のフライパンはね、私が造った物なのだよ」

私は左隣の席に座らせたライトにフォークを手渡しながら説明する。ライトは初めて見るハンバーグ・ステーキに興味津々のようだ。ソースをかけ、さらに鉄板の上が騒がしくなると、くるくるとフォークを回して喜んでいるようだった。

「さて、食べるとしようか。いいかいライトくん。今日は私は、右手でこのナイフのみを使う事としよう。ライトくんは、私の左手の代わりに、ハンバーグを押さえ、そして口まで運んでくれるかい」

ライトは嬉しそうに頷くと、ぷすりとハンバーグへとフォークを突き入れる。その穴から溢れる肉汁を見ながら、私はハンバーグへとナイフを入れた。ライトは待ちきれないといった様子でナイフの動きを見守り、切れるや否や、私の口元へと運んできた。

「ははは、少し待ってくれ。どれ、いただくとしよう。お願いするよ」

口を開けると、打って変わって慎重な動きでハンバーグが口中へ運ばれてくる。ぱくりと噛み締めれば、甘い肉汁が口中に広がる。頷きながらライトに親指を立てて見せると、ライトは大喜びでフォークをくるりと回した。そして、早速またハンバーグへとフォークを刺した。

この不格好な二人羽織のような食事が終わるころには、ライトもすっかり元気を取り戻したようだった。私たちは2人で「ご馳走様」と頭を下げた。ライトは食後の珈琲も口元へと運ぼうとしたが、それは遠慮しておいた。

「いやあ、ご馳走様。ライトくんのおかげでいつもより美味しく感じたよ。ありがとう」

ライトは照れ臭そうに掌をぶんぶんと振った。あまりの勢いに、その冷たい掌が私の手に当たるほどだった。その時、ふと、ある考えが頭に浮かんだ。

「そうだ、ライトくん、この仕事は君にぴったりかもしれない」

ライトは目の前で掌を傾げて私を見ていた。

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「お待ちどうさまです。ハンバーグ・ステーキです」

ライトと外食をした翌日、私は再び同じ店を訪れ、同じハンバーグ・ステーキを注文していた。だがしかし、今回ライトは隣にいない。店主の杵塚氏と共に、私の向かいの席に緊張した様子で腰かけていた。

「どれ、頂きます」

私はハンバーグにナイフを入れる。目の前の杵塚氏とライトは、固唾を飲んで見守っている。ふっくらとした俵型のハンバーグからは、溢れんばかりの肉汁が流れだす。そのまま口へと運ぶと、私は大きく頷いた。

「うん。美味しい。美味しいよライトくん」

ライトは掌をぱっと広げ、椅子から飛び上がらんばかりに腕を振り上げた。

「ささ、杵塚さんも食べてみてください」
「はい、では失礼して」

杵塚氏も箸でハンバーグを摘まんで口に入れると、信じられないとという様子で2、3回首を振って頷く。

「うん。うまい。凄いじゃないかライトくん。こんなにも違うとは」

ライトは照れ臭そうに、誇らしそうにもじもじいている。このハンバーグ・ステーキは、ライトが捏ねたものなのだ。

ハンバーグを作る際、まずは挽肉に塩を振って捏ねる。挽肉同士を結着させる粘りを出し、形を整えやすくするためだ。だがその際、一つ注意しなくてはいけない点がある。それは、十分に冷えた状態で作業を行う点だ。

人の手で練る場合、そのままでは体温のために挽肉の脂肪が溶け出してしまうのだ。その場合、粘りが出たと思っても、それは、挽肉が結着して粘りが出たのではない。単に溶けた脂の粘りを感じただけだ。こうなると、焼き上げたハンバーグは隙間だらけになる。ぽろぽろと崩れ、肉汁は流れ出し、食感も物足りなくなってしまう。

それを避けるために、洋食屋でハンバーグを練る際には、氷水を使って、ボウルや、時には手まで冷やしながら捏ねる所も多い。つまり、挽肉を捏ねる手は冷たい方が良いというわけだ。

以前、杵塚氏にそんな話を聞いていた私は、ライトの手に触れてその事を思い出した。そして、杵塚氏に頼んで、ライトにハンバーグを捏ねさせていただいたというわけだ。

「では、杵塚さん、ライトくんをこちらで雇っていただけますか」
「はい、もちろんです市野さん。こちらからお願いしたいくらいです。ライトくん、よろしく頼むよ」 

杵塚氏が差出した左手を、ライトは力強く握り返した。

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杵塚氏の洋食店「ふらいぱん」は、たちまち人気店になった。「機械人形の手捏ねハンバーグ・ステーキ」という話題性に加え、味も大評判になったのだ。

それに伴い、ライトも一躍人気者になった。厨房でハンバーグを捏ねるだけでなく、殺到する新聞社やTV局からの取材を受け、言わば「ふらいぱん」の宣伝活動を任されるようにもなったのだ。その人気は絶大で、杵塚氏だけではスケジュールの調整に対応しきれなくなり、娘さんがライトの秘書のような仕事をしなくてはならない程だった。

やがて二号店が開店すると、ライトはますます忙しくなった。帰宅時間は遅くなり、泊まりがけで出張する事も多くなった。さらに、TVタレントのような仕事が増えだすと、だんだんと家にいない事の方が普通になり、月に一度、電池を交換するという口実で帰ってくる程度になっていた。

ライトは帰宅すると、何も書かずにぱたりと私の膝の上に載って電池ボックスの蓋を差し出す。台座にはもうブリキのスケートボードは無く、代わりに「ふらいぱん」のロゴが入った自走式の台座が備え付けてあった。電池を交換してあげると、ライトは物憂げにゆっくりと身を起こし、最近あった出来事をノートへと書いて教えてくれるのだ。

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その日の夜。晩酌をしながらTVを点けると、ちょうどクイズ番組が始まったところだった。TVの中の司会者が声を張る。

「本日のゲストは、『ふらいぱん』の料理長、市野ライトさんです」

ブラウン管の中では、掌の甲にちょこんとコック棒を乗せたライトがぺこりとお辞儀をしていた。「おお、がんばるのだぞ」と呟いて、ふと、隣の座布団を見た。かつてそこに座って一緒にTVを見ていたライトは、今はTVの中に居る。楽しそうに回答を見せてきたライトは、しょんぼりしていたライトは、もういない。

「よかったですね。ライトくん」

私は呟く。

「そう。よかったのです」

私はもう一度呟いた。そして、TVを消すために立ち上がった。

その時、玄関がカラカラと開く音が聞こえた。居間から顔を出して覗くと、ライトが帰ってきた所だった。

「ライトくん。お帰り。丁度今、君が出ているTVが放映されている所だよ」

ライトは軽く頷くと、ゆっくりと三和土を乗り越え、疲れ果てたようにのろのろと居間へと入ってきた。私が座ると、早速その上に身を投げ出してくる。軽く手の甲を撫で、電池ボックスの蓋を外す。ちゃぶ台に常備してある単一電池を引き寄せて、ライトの台座から全ての電池を取り除いた。その時だった。

――このまま、電池を入れなかったらどうなるだろう。

ふと、そんな考えが頭をよぎる。私は思わず唾を飲む。かつてライトは言っていた。《電池を抜いて三〇秒経過すると、初期化される》と。私はちらりと壁掛け時計の秒針を見る。あの針が、あと180度動くまで、このまま何もしなければ。その後に駅へと向かい、電池を入れて放置すれば。そして、何食わぬ顔をして、あの時と同じように私とライトが出会ったのなら。

何を馬鹿な事を。そう頭で思いながら、私は動けずにいた。時計の秒針は既に10秒を刻んでいる。その時、ライトの掌がピクリと動いた――ような気がした。

もしかしたら、ライトは気づいているのではないか。私の額に汗が滲む。もしかしたら、ライトは気づいたうえで、許してくれているのではないか。私が望むのであれば、そうしても良いと。

気づいたうえで、身を委ねているのではないか。いや、もしかしたらライトも同じように望んでいるのではないか。また、あの二人だけの生活を送りたいと。

時計の針が20秒を刻む。あと10秒。あの針が60度動くまでこのまま息を殺していれば。私の手は震えだすが、まだ動かない。唾を飲みこもうとするが、喉が張り付いたように乾いて上手くできない。そして私は――。

そして私は、六本の電池をライトの台座に収めた。ぱちりと蓋を留めると、いつものように物憂げにライトが掌を持ち上げる。

ライトよ、ライト。私の可愛い機械人形の左手よ。お前は私の所有物ではない。お前の人生はお前の物で、私の物ではない。私がそれをどうこうするなどという事は、できない。してはいけない。お前はお前の選んだ道を、そのまま歩んで行っておくれ。

隣の座布団へとちょこんと乗ったライトは、番組収録時の裏話を楽しそうに書き連ねている。その姿を見守りながら、私は考える。

ライトよ。この先お前がどんな道を歩むかはわからない。希望に満ちた幸多い道であることを願おう。たくさんの友人や、つがいとなる右腕にも出会う事だろう。

そして私は考えてしまう。ライトよ、ライト。できることなら時々は、弱った姿を見せておくれ。私の元へと、膝の上へと帰ってきておくれ。どんな事があろうとも、それでもその冷えた手が、私の腿に置かれる限り、私はお前を助けよう。助けさせてほしいのだ。今しばしの間。そう、この私の卑怯な手が、お前の手の冷たさを感じられる間くらいは。

ライトはペンをコトリとちゃぶ台へ置き、トントンとノートを指で叩く。その音で我に返った私は、済まない済まないと微笑んでノートの内容を読み上げる。ゆっくり、ゆっくりと読み上げる。

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