なぜ「60になると世界が突然変わる」のか?

昨年、還暦になった。
私は経営者なので、まだまだ働く。何が言いたいかというと「(退職という)向こう岸は、まだ見えてない」ということ。

向こう岸が見えていれば、向こう岸を見ながら過ごせばよいし、そうであるべきですらある。だが私は違うので、「仕事や世界や世間に敏感でないとイケナイ」ということが言いたい(誤解なきよう言及すると『退職したら鈍感になる』ということが言いたいワケではない)。

…すると、普通の60歳では見えてこない景色が見えてくる(てか、普通の60歳にとっては『退職した変化』と区別がつきにくい、ということ)。

その1つが「60になると、世界が突然変わる」ということだ。

はじめは、漠然とした印象だった。

ところが「そういうアンテナ」が1本立つと、どんどん引っかかってくる。
些末な例だと、次のようなものがある。
私の住む岡崎市では昨日(8/3)に毎年恒例の花火大会があったのだが、その桟敷席が「地面にマット敷くだけ」になった。

…「岡崎市の花火大会」というと、地元のみならず全国的に有名(らしい)で、関係者は相応の矜持とプライドを持って企画運営していたはずだ。で、これまでは「桟敷席」の作りも、江戸時代さながらの凝りようで、木枠を組んで2週間くらいまえから設営し始めたもの。風情があった。

ところがここ数年、もちろんコロナの影響があったとはいえ、「アジも素っ気もない」マットを地べたに敷くだけになった。

…誤解なきよう申し添えると、私は基本的に花火大会自体が好きではないので、どっちでもいいことだ。「桟敷席が正義でマットがケシカラン」ということが言いたいワケではゼンゼンない。

しかし確実に言えるのは「数年前だったら、あり得ないこと」だったということだ。
それが突然、やってきた。しかもこの手の変化が、公私ともに、実にたくさんある。なぜ、60になった途端に、このような「急激な、しかも従来だったらあり得ないような」変化が突然、起きるようになったのか?

…はじめは「トシ取るってのは、そういうことなんだろな」と思っていた。要するに「変化自体は常に変わらず起きているが、それが堪える(身に沁みる)ようになってきた」んだと思っていた。

もちろん、それもあるだろう。しかし、それだけではないような気がしていた。

例えば、この「花火大会マット事案」も、「数年前だったら、あり得ないこと」だったのは明らかで、しかし「あり得ないことだ、と感じる」こと自体が、とりもなおさず「私がトシだ」という事実から出ていることも、間違いないのである。

…そんな日々を送っていたら、ある日ハッと思い出した。
それが、「インベスターZ」というマンガの一場面である。以下、画像で転記してみる;

「インベスターZ」は、ひとくちに「マンガ」という括りで語れない、含蓄と情報量のある名作.
今なら(知らんけど;かつては)Kindleで全巻無料で読める.

有名な「天動説と地動説」の話だ。
ここでの肝要なセリフを抜き出してみると;

「天動説から地動説に変わったのは、地動説派が天動説派を粘り強く説得して変えさせたんじゃないんです」
天動説を信じる人たちがみんな死んで、この世からいなくなったからなんです

このくだりを初めて読んだときは私もまだ若かったので(ってほんの数年前だけど、私は『自分がトシ取ってる』とは、そのときはミジンも思ってなかった💦)、ピンとこなかった。
だが今は、人生の、そして世界の至る所で(なかんずく『仕事にまつわるシチュエーション』はなおさらだ!💦)痛感することが多いのである。

…これを、さっきの「花火大会のマット事案」に当てはめてみると、次のようになる;

…若い世代の職員や担当員が、次のような企画案を出す。
「花火大会のマス席・桟敷席は、経費もかかるし危険でもあります。今年から『地面にマットだけ敷く』ということにしましょう」

すると、「昭和のバブリーな花火大会すら体験している」50代後半くらいの上司や関係者が、こぞって大反対する。
「何言ってんだ、花火大会と言えば桟敷席なのは江戸や明治の昔から決まってることなんだぞ」と言って一蹴する
…そしてもちろん、「最終決定権」を持っているのはこれらの「退職間際の職員」なので、若い職員の提案はにべもなく却下され、棄却される。

ところが、ここ数年は違う。その変化はこういうことだ。
これらの「退職間際の職員」達が、こぞって退職。「インベスターZ」で言えば「天動説を信じる人たちが、みんな死んだ」状態が、やっと(?💦)来たわけである。そして「何の問題もなく、この『マット事案』が通った」というわけだ。

…さて展開。

桟敷席の話はアマリニモ喩えがツマランかったが(しかし今さら書き直す時間もない💦)、この手の現象は、世間のソコカシコでアタリマエのように発生している。仕事も然り。私の世代の人間達は、まるっと全員、退職しているというわけだ。あるいは退職しないまでも、嘱託となり「決定権を剥奪されて社に残る」人たちなワケである。いずれにしても、彼らには社会的な決定権は、モハヤない。

私はこの事実に気がついたとき、別に溜飲を下げたワケではないが、大いに納得した。「これが、60になると途端に世間の常識が変わる理由なのか」、と。

…これは何も、今に始まったことではない。
例えば私よりも5年年長の人にとってみれば、5年前に発生した現象なのだ。

それじゃその変化は「私にとっては劇的な変化」であっても、それ以外の人たちにとっては、どうなのか?「劇的な変化」という意味では、同じではないのか??

しかし皮肉にも、そうではないのである。

「退職する(あるいは社会的権力が実質的に失効する)人たち」というのは、毎年60歳である。
そしてそれはとりもなおさず「60歳の人たちが持っている社会通念・常識・イデオロギー・信条」みたいなものを持っている人たちが、いっせいに社会から退く、ということなのだ。だからその変化は突然で、しかも劇的なのである。「徐々に進行する」という性質のものではない。だから「60歳の人たちに固有な現象」として、社会に現れる(ように、60歳の目からは見える)。

総括。
アタリマエのことながら、こうして起きた変化は、不可逆変化である。
いったん起きた以上、時代が戻ることはない。
ゆえに「60を過ぎた人たち」に出来ることは「自分を(新しい)社会に適合させる」という以外にない

…ま、こうやって書いてくると「そんなことアタリマエで、今さら改めて言うことでもない」というのも事実。

だが私は「なんでここ最近、還暦になった途端に、(仕事を含む)世界や世界観や常識が激変したのか?」ということが不思議でたまらなかったので、この疑問が氷解した、というのは極めて重大なデキゴトだった。
そして同時に「若者主体の世の中で『世間の流れに竿さす』ような愚行を避ける」という意味でも、これまた極めて大きな気づき、である。



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