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夢とは有と無のあわい? 霊界との接点?

昨日の朝、実に印象的な夢を見ました。
亡き父、叔父、祖母、いずれも既に他界している三人が夢の中に現れたのです。

詳細は控えますが、叔父は過去にある罪を働いており、僕はそれを憎んでいました。

生前の叔父は、恰幅のよい体型です。
しかし、その夢に現れた叔父は面影こそ残しているものの、なぜか小人のように躰が縮んでいたのです。

「あれ、随分と小さくなりましたね」

僕は思わず問いかけてしまいました。
叔父は病で他界しましたが、それにしたって縮みすぎです。
せいぜい僕の腰か、それ以下程度の身長しか無いのです。

僕の父は、その叔父の兄にあたります。
父はことば少なで、我が弟の罪について責任を感じているようにも見えました。何か忸怩たる思いのようなものが表情や態度にも感じられます。

今年は本当に亡き父が夢によく登場します。
元旦に現れたのを皮切りに、香川旅行の後にも「ありがとう」を告げに一度。そして今回。
今年に入って三回目です。
これほどの頻度で父が夢に現れたことはありません。

そんな中、僕は気づきます。
父と叔父の前に、どうやら叔父を主役として描いた漫画が置いてあるのを。
それを手にとって読んでみました。

※このあとグロテスクな表現が入ります。
   苦手な方はお戻りください。

実に不気味な漫画でした。
10ページも無かったくらいかと思うのですが、タッチは藤子不二雄をもう少しブラックな世界観に寄せた感じ。
『魔太郎が来る』の雰囲気が似ているかもしれません。

この漫画にはフキダシや文字も描かれていたと思うのですが、よく思い出せません。
あるいは何か靄というか膜というか、ボカシ状のものが文字部分にだけかかって読めなくされていたような気もします。

しかし絵だけで充分ストーリーは分かりました。
病魔に襲われた叔父はどうやら大手術を余儀なくされたようなのです。
その結果、体内のあらゆる箇所に巣食った腫瘍かなにかを切り取るためでしょうか。
内臓やら患部やらをありったけ摘出された結果、あたかも幼児のように躰が縮んでしまったようなのです。

終盤のコマには、バラバラに切り出されてなぜか虚空に整然と浮かぶ自分の摘出された無数の内臓や患部を叔父が呆然と眺めている。
そんな場面が描かれていました。

叔父が今の体型になったのは、どうやらそんな経緯だったようなのです。

実に無惨でした。

僕は直接的な被害者ではないものの、人倫にもとる行為を働いた叔父に憎しみに近い感情を抱いていましたが、

「そうか、叔父は地獄に落ちて、罰を受けたのか」

そのように理解しました。
それを地獄と呼んでいいのかはわかりませんが、ともあれ、あの世で痛い目にあったのです。

そして叔父がその変わり果てた無惨な姿をあえて僕の前に晒したのは贖罪の気持ちからであるようにも見えました。

「もう手放そう。
 自分の知る範囲については罪への執着を手放そう」

自分でも意外なほど、すんなりそう思いました。
これ以上、叔父の件に囚われるのは自分のためにもならない。そう感じました。

それで気づきました。
父、叔父、祖母が勢揃いで夢に現れたのは、この忌まわしい過去の罪にひとつの区切りをつけるためだったのだろうと。

特に叔父や祖母が夢に現れたのは初めてのことです。
特別な意味を持つ夢のように思えました。

叔父の兄にあたる父の表情を見ました。
何かを語りたい。
しかし語ることができない。
どうか察してくれとでも訴えているかのように見えました。

亡き父はつい先ごろの旅行中にも、様々な婉曲な形でメッセージを送ってきたように思っているのですが、今回も毎度の夢でのふるまいと同様、言葉はひとことかふたこと漏らす程度で、意思や事情を饒舌に語るようなことはありません。

霊界には、現世に対してメッセージを直接的な形で送ってはいけない、という掟でもあるのでしょうか。

こうも続くと、そのように考える方が辻褄が合う気がします。

夢とは一体なんなのでしょうか。
僕がただ単に脳内で作り上げたイメージなのか?
しかし、僕はあのような高度な漫画を描く技術は持っていません。
では、あの漫画は誰がどのように構成し、描いたのか?

僕の無意識が潜在的な力によって漫画を作り上げ、それをもうひとりの僕、顕在意識としての僕に見せたのでしょうか?

それとも霊的な力、高次の存在の働きかけがあって、あのようなイメージが創出されたのでしょうか。

確かに気がかりなこと、あるいは外部環境や物音、体調などによって見る夢の内容が左右されることはある気がします。

トイレに行きたいときは夢の中でもトイレを探すものですし、テレビをつけっぱなしでウトウトすると、その放映中の物音が奇想天外な解釈でもって映像化され、夢として現れてくる経験をしたことがある方は少なくないでしょう。

素晴らしい音楽や美術作品、あるいは今回のような漫画や、習得した覚えのない外国語がびっしり記された辞典などが夢の中に現れると一体あれは誰がどのように作ったのだろうと本当に不思議な思いがします。

もし夢で得たインスピレーションをそのまま現実に持ってくることが出来れば、と何度思ったかしれません。

(夢の中で見聞きした謎の日本語や外国語を運良く記憶できていた場合、これを起床後にネット検索してみると、どうやら実在しない言葉だったらしく何も引っかからないことはザラにあります。しかし、音楽や美術作品ならそのまま現実の創作に活かすことができるでしょう)

確かに僕は、叔父の件が気がかりでした。
だから、こういう夢を自作したのだと解釈することは容易です。
しかしながら、夢を観客として見る僕にはそれを自作した覚えもなければ、その意外なストーリー展開に大層驚かされもするのです。
はたして自分で自分をそのように驚かすことが出来るのでしょうか。
少なくとも日中、目が覚めている中では不可能です。

だとすると、何か高次な存在の働きかけを想定しないわけにはいかなくなってしまうのです。

実際、スピリチュアルを持ち出すまでもなく誰もが今すでに自分ならざる謎の働きによって肉体や生命を維持されています。
一秒も休むことなく二十四時間体制で。

そのような高次な、つまり自分では意識できない働きとともに生きているのが人間だとするならば、それと同様なことが夢の中で起きたからといって何も不思議ではないのかもしれない。

そうなるとむしろ生体恒常性や、意識に対する無意識とは「単なる働き」というよりも、
それ自体が私とは別の知性的人格を有している、
そう言ってもよいような高レベルな意識活動であるようにも思えてきます。

この世があまねく私とあなたで構成されているとするならば、
生者の世界を有とみなし、
死者の世界を無とみなすことはできるでしょう。
つまり霊とは無の世界に生きる者です。

そして夢とは、その有と無、
つまり生者と死者がほんのひとときだけ邂逅できる境界線なのではないでしょうか。
(そして邂逅には、やはり何か掟があるのかも)

こうして書いてみると「ゆめ」という響きと、
「有(ゆう)」「無(む)」という音は何か似ていますね。
夢とは有と無のあわいなのでしょうか。
だから「ゆうむ」が転じて「ゆめ」という呼び名になったのでしょうか。

僕は、これまでも夢うつつの中でメッセージのようなものをたびたび受け取って記事にしてきました。
いつも受け取るのは決まって早朝です。
深夜にそのような夢を見ることは記憶の限り無くて、
決まって朝目覚める直前、まさに眠りと目覚めの両側に足をかけているようなタイミングで、それらの体験をすることが多かったように思います。

とすれば、やはり夢とは有と無、その2つの流れがぶつかりあって生み出される、虚と実の狭間に生ずる被膜のごときものなのかもしれません。

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