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『目の見えない白鳥さんとアートを見に行く』を読んで、わたしは嗅覚障害と向き合う

 そもそもこの本に惹かれたのはアートへの関心以上に、見えないという白鳥さんの気持ちや立ち振舞いについて知りたかったからだ。というのも、わたしはにおいがわからない。におえないことをあけっぴろげにして周囲とかかわることに、まだモヤモヤもある。だから、見えない白鳥さんが見える人たちとどうかかわるのか、それを知りたくてこの本に飛びついた。
 20代前半に風邪をひいたかなんだかがきっかけで嗅覚障害になった。そういう嗅覚障害はすぐに治療をすれば治るらしいのだけれど、のんびりしていたわたしは、におわないことの重大性に気付かずに初動が遅れた。やっと治療したいと思ったときには妊娠や授乳でステロイドが使えずに様子見となり、あっという間に数年がたってしまった。数年たつと治る見込みがほぼなくなってしまうことを知ると、もうこのままでいいやと思うようになった。
 新米や金木犀、降り出しの雨など、好きだったにおいがしなくてがっかりしたことは多々ある。けれどそうやって落ち込むようなことはとうに終えた。においない歴もうじき20年ともなると、におわないことに馴れるもので、不便もあまり感じないし、この現状を憂う気持ちはほとんど減っている。
 厄介なのは、症状そのものよりもにおえないことを人に言おうか、黙っていようかという迷いである。町を歩いていて「あ、今カレーのにおいしたね」など、どこかから漂ってくるにおいのことを言われると、わたしにとってはあまりに唐突な会話でドギマギしてしまう。(ああ、におえないことを言おうかしら。でも言えばこんな軽い会話が重たい話になってしまうかしら…)と悶々とする。そして「あぇー」と、「うん」とも「いいえ」ともいわない声で返したりするのである。話題が変わればそれまでで、さらににおいの話を続けそうになると「あの実は…」と打ち明けてみたりする。そんな対応をしているうちに、誰に打ち明けて誰に打ち明けていないかがわからなくなってきて、結果においの話は苦手!となってしまった。
 サラッと打ち明けない原因は、ヘンに思われたくないというまったく余計なプライドと「におえないことを聞かされた人が困るだろうな」という過敏な憶測につきる。実際には、「へん〜」なんて言われたことはもちろんないし、こちらが悲しくなるような返答をされたことも一度だってない。そこは感謝しかないのだけれど、相手が驚きながらも言葉を選び返事をしてくれる様子に対して、ありがたいよりも申し訳ないの気持ちが勝ってしまう。申し訳ないから、こちらはなるべくポップに話さなきゃ!とムダに気を張り自分を見失うから、打ち明けるのをためらうのだ。そんな不自然なわたしと違って、白鳥さんは実に自然体である。白鳥さんだけでなく、有緒さんもマイティさんもみな自然体だ。
 30代前半までは盲人仲間といると落ち着くと思っていたという白鳥さんは、30代後半からそう思わなくなった。「いまは見えるとか、見えないとか関係なくなって、見えるひとの友だちのほうが多いし、むしろそっちのほうが気楽なんだよねえ」という。そんな白鳥さんのことを有緒さんは「『見えないひと』と『見える人』の境界線を飛び越えたからこそ、楽になって、心地よい場所をみつけることができた」のだと分析していた。「境界線を飛び越える」とは「知らない世界に行く」ことで、そのときは白鳥さんでも「ちょっと怖い」らしい。「でも、その怖さとワクワクはセット」だから、「不確かさがないところにワクワクはない」と白鳥さんは考える。そして「確かな世界にずっといたら、居心地はよくても人生としては面白くないのかもねえ」と。
 はたしてわたしは面白さを求めて不確かの境界線を越えてきただろうか。においに関してもそれ以外でも。「ちょっと怖い」というふうに白鳥さんはマイルドな言いかたをするけれど、きっとなかなかな怖さがあったはずで、それを飛び越える勇気と勢いをもっていることが、白鳥さんの魅力なのだと思った。
 白鳥さんが「飛び越えた」うちのひとつがアート鑑賞である。白鳥さんと有緒さん、マイティさんたちのアート鑑賞は読んでいるだけでも実におもしろい。とくに奈良の興福寺で二体の鬼の像を見ている様子は傑作だった。ラーメンを「はい、お待ちどう」ってしているみたいだという会話を、頭にはてなを浮かべながら読んでページをめくった。するとそこには、もうどう見てもラーメンの出前をしているとしか思えない鬼の写真があって、思わず声を出して笑ってしまった。
 ああ、白鳥さんたちといっしょに鑑賞してみたい!と思う。でも一方でこの本を読んだからわかっていることがある。白鳥さんたちとだけがおもしろいというわけではないのだと。(いや、それでも白鳥さんたちと鑑賞したい気持ちはあるのだが。)事実、「ラーメン出前鬼」も初対面のワークショップ参加者たちとの鑑賞の様子だった。だれでもいい!っていうと乱暴に聞こえるけれど、でも本当にそうでだれかと鑑賞するからおもしろいのだと思う。
 白鳥さんに興味津々のわたしだけれど、そういえばアートにも少々関心がある。学生のころは
、学芸員資格取得のための講義で毎週のように指定された展示を見に、いろいろな美術館や博物館に行っていた。ひとりで行くことも友だちと行くこともあったが、鑑賞のしかたに大差はなかった。なぜなら、美術館や博物館はしずかにひとりで見る場だと信じて疑わなかったから。だから複数人いてもなるべく黙って鑑賞し、わかったような顔をしていたのである。べつにその鑑賞のしかたでも美術館巡りはじゅうぶんに楽しかった。と、思う。それは美術に精通していると思いたかったからかもしれない。本当は(なんのこっちゃわからんな)と思っても素知らぬ顔でごまかしていた。せめて展示室を出てからでも話し合ったりすればよかったのかもしれない。けれど自分の解釈があってるかどうかなんてことを気にしていたから、「ああ、よかったね」くらいしか言わなかった気がする。
 白鳥さんたちの鑑賞のように、だれかとああだこうだと話しながらアートを見てみたい。今ならそのおもしろさをじゅうぶんに満喫できそうだ。自分がひとと解釈が違っても怖くないし、むしろそれぞれの人生を反映した「ちがいだらけ」のアート鑑賞をしてみたい。
 「ちがいだらけ」を楽しむ気持ちはきっとアートにとどまらず、日常にも及ぶ。見えたり見えなかったり、におったりにおわなかったり、「弱者」と言われたり言われなかったり。「あまねく」人々といっしょに何かをすることで広がる境地があるはずだ。
 有緒さんたちがアート鑑賞のおもしろさに気づくことに白鳥さんが貢献したように、わたしにももしかしたら、におえないからできることがあるのだろうか。「におえないよしえさんとハーブティーを飲みに行く」とか「香木を探しに行く」とか、そんな提案をしたら友人たちは誘いにのってくれるだろうか。それで友人たちの暮らしを豊かにしたり、人生観を変えたりできたりしたら…。想像するだけでニヤニヤしてしまう。におわないという特徴は強みにだってなり得る。
 ひととかかわることはひとりでは見つけられない自分を見つけるきっかけになる。いや、そんな理屈っぽく言わなくても、ひととの共同作業はたのしい!そう思わせてくれた本だった。

#読書の秋2021
#目の見えない白鳥さんとアートを見にいく

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