見出し画像

おとうと

第3話

風邪をひいたりちょっとした怪我をしたり
そういうことはあったけれど、弟はとても健康に育っていった。
母が「健康優良児コンクールに申し込んでみようかしら」と
冗談交じりに話すくらい、元気な子だった。
どちらかというと大人しい方だったけれど気性の荒い面もあり
「やっぱり男の子だなぁ」
なんて思うこともあった。
父の苗字で生まれた子。私は母の苗字を暫く名乗ったけれど
弟は生まれてすぐ父の苗字を名乗った。
高齢でできた子は可愛いなどと聞くが父もその例にもれず、
「目に入れても痛くない」というよりもう実際目に入れてない?
と皮肉を言いたくなるくらい溺愛していた。
私に対する態度とは全く違った。

作ってやったミルクを飲み干す。
離乳食をあげるのも楽しかった。口に入れた食事を飲み込んで
「あ」と口を開ける様は何とも言えない可愛らしさがあった。
タオル地のベビー服がよく似合い
「その服可愛いね」
と話しかければ手で両脇の辺りをつまみこちらを見やり
「どう?」といった感じでアピールする。「可愛い?」と。
そんな仕草も可愛くて、話始めるのは少し遅かったけれど
私も私なりに溺愛したものだ。

弟が2歳になる頃NHKでドラマ「おしん」がスタートした。
仕事嫌いの祖父に現代でいう「搾取子」にされていた母は
終戦の年に生まれたにも拘らず学校に行かせてもらえず、
子供の頃から大人に混じって働かされてきた。
年齢を15歳(中卒)と偽って。
小学1年生の年齢の子を15歳と紹介されても
「いや、15歳って嘘でしょ?まだこんな小さい子連れてくるってどういう神経してるの?学校は?行かせてないの?あんた何考えてるの?」
なんて今なら祖父は窘められ、
母は恐らく保護されていると思うがそこは時代。
ある小売業にあっさり採用され職場の大人たちに散々バカにされながら
それでも黙々と働き、幾許かの給料を得ていた。
得た給料は祖父のパチンコ代に消えた。
家族を食べさせるために働いているはずなのに
ちっとも暮らしが楽にならないと母が気付いたのは、
12歳でやはり祖父に無理やり連れて行かれたキャバレーで働くようになって
暫く経った頃だったそうだ。
祖母は働き者だったそうだが子煩悩とは言い難い女性で
母を散々傷付けてきている。
それでも親のためきょうだいのためと働いてきた。
字の読み書きも簡単な計算もできないまま成人し、
そして社会に放り出された。

他者があまり経験しないであろう人生を歩んできた母にとって
あの「おしん」というドラマは
自分の半生を慰めてくれるに十分な存在だったようだ。
何故って8時15分にあのイントロがテレビから流れるだけで
目を赤く腫らすのだから。
小学5年生になっていた私が風邪をひいて学校を欠席した日、
私を病院に連れて行く前に母はおしんを視聴していた。
イントロが流れ母はしっかとテレビ画面に食い入っている。
私は「また泣いてる」と気怠い体を布団からちょっとだけ起こし
テレビが置いてある隣の部屋にいる母の様子を眺めていた。
そこに2歳の弟がタオルを持ってくる。とことこと覚束ない足取りで。
手に握ったタオルを母に無言で手渡し母の隣にぺたんと座る。
何事?と訝しんでいる私に
「こうやって毎日おしんが始まるとタオル持ってきてくれるの」
と母は言った。いつも泣いてしまう母を気遣っての行動と気付き、私は
「偉いね。優しいね」
と声をかけた。弟はチラッとこちらを見て、すぐテレビ画面に視線を戻す。
母を思う気持ちの表れだろう。
ドラマが終わるまでの15分間片時も母の傍を離れず
弟は号泣する母の隣に座っているのだ。「ぺたん」と。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?