サウナの整うを考えた
整うとは何か?
それは神秘的な体験だったり、ととのったーと(多分心のなかで)叫ぶ体験なのだろうと思っていた。実際にかの有名なバイブルにはそう描写されていた。
そのバイブルは、「サ道」。テレビドラマにもなったし、作者が書いた絵がサウナに商品のポスターにあったり、作者とコラボされたミネラルウォーターが売っていたり、作者のコンセプトで作られたサウナがあったりと、サウナ界隈では知らない人は(多分)いないサウナブームの火付け役のサウナ大使の書いた本だ。
最近はこんな風にサウナで飯を食っていけたらと憧れを抱き、何かサウナで一儲けができないかと考えるようにまでなった。考えるだけではあるが。
そんな素敵な体験、やらないわけにはいかない。
私も本を読んで、もれなくサウナに感動体験を夢見て、サウナにはまった。
当時、「サ道」の本を読んだ私は、サウナで「整う」に挑戦を始めるのだが、何回挑戦しても「整う」がわからない挫折の日々を悶々と過ごすことになる。
やれ、ここのサウナは温度が高いだの、ここのサウナは水がキンキンだの、アウスグースやってるだの、ネットの情報に惑わされながら、あちらこちらのサウナに行っては、とにかく「整う」を実感すべく色々取り組んでみた。
サウナに入る時間、水風呂に入る時間を決め、水をのむタイミングまでバイブルの真似をし、整わないと、パターンを変えてみた。
悪くはない、むしろ爽快感は得られるのだが、「ととのったー」という衝撃的な体験がない。何か悪いのか。試行錯誤を繰り返す。しかし整う体験が実感できない。
サウナに行きはじめて数年が経過し、ふと「そもそも整うとはなんなのか」という疑問が今更ながら浮かんできた。
何か根本的に間違っている?
そこで、周りのサウナーを観察してみた。
気持ちよくサウナ、水風呂後に外気浴しているが、誰も(心のなかで)ととのったーとは言っていないような気がする。どちらかというと寝ている人が多い。
みんな整ってないのではないか?
そう思いはじめた時にコロナ禍に突入。
サウナに行けない日々。行けなくなると家でなんとかならないか考えはじめ、傘をさして風呂に入ってみたり、熱湯風呂にしてみたり、浴室乾燥と水風呂でサウナにならないか試してみたり。
残念ながらサウナにはならなかったが、スタンフォード式温冷浴的にはなったようで、入浴後ぼーとすることには成功。
ん、ぼーとする?
もしかしたらこの、ぼーとすることが「整う」では?
はっとしたのもつかの間、そのままねむりについてしまった。
コロナ禍が終わり、いよいよ待ちに待ったサ活を再開。
ところがである。サウナが暑い。水風呂が冷たすぎる。
もしかすると、サウナブームもあってか、サウナは昔より暑く、水風呂はキンキンにしているのでは?と思ってみたが、昔と変わらなかった。
すっかり暑さ冷たさに耐性のあるサウナ体質が抜けてしまっており、軟弱サウナーになってしまった。
ところがである。いつもよりサウナ後はボーとする。かなりいい感じだ。劇的な感覚ではないが、かなりいい。
もしかすると、頑張って耐性をつけたのが仇となり、暑い、冷たいの落差が少なかったのではないか。と思いつく。
ブッタも厳しい修行をやめ、瞑想し、暁天に悟りを開いたという。
コロナで一時サウナを離れたことがよかったのか。
サウナの整うとは、あまりの暑さで、脳への刺激が暑いの思考だけになり、その後水風呂により身体能力を低下させ、思考力を奪い、その後の休憩で、いらないことを考えられない状態でリラックスし、その状態で、身体能力が回復。雑念がなくなってリセットされたかのような状態になることではないか。
そのためには、サウナの暑さをありのままに感じ、水風呂の冷たさもありままに感じる必要があったのだ。
と思いついたので、ノートにメモを記する。
多分2年後ぐらい後に読み返すと、なにを言っているのだこいつとなるような気もするが、その時を楽しにしながら、これからも「整う」を悟るためのサウナと整うについての思考を続けてきいたいと思う。
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