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深夜のコンビニ散歩

基本的に気持ちはアナログ派の当方ですが、夜景を描くとき「デジタルって便利だなあ…」とつくづく思います。黒で塗りつぶして、テキトウに白で抜いていけば「まあなんとなくそんな感じ」にはなるw今回のヘッダ画像はそうして描きました。

これ墨で塗ってポスターカラーとかミスノンの白で描くのけっこうメンドウなんですよ(アナログ派の「うんうん」が聞こえるようだw)、最初から黒で「光ってる部分」描いてコピー機でシロクロ反転する手もありますが、それにしたって切って貼っての手間がありますので。

夜散歩するとそんなことばかり考えていますw

あとたま~にですが、「夜好きな時間に散歩するのいいな…」とガラにもなく思います。年に数回、中学生のころを思い出すのです。

今日はその珍しい数回のうちの一回だったので、誰も興味がないでしょうが忘れないうちに描いておきます。(…しかしこれ朝読んでもつまんないだろうな、えっと朝だったら読まなくていいです(^_^;))あと今回文字ばっかです。


中学生の時、周りに受験勉強をせえと言われますが、当然したくありません。ので、数分机に向かうフリをして、「シャーペンの芯が切れた」とか「夜食でも買ってくる」とかなんとかいってよく自転車にまたがっていました。

当方ウソがつけない性格なのでそのまま遊びにいくことはできません。なのでなるべく遠くのコンビニに向かいます(笑)。

40分くらい走っていいかげん「こっから先は田んぼと川しかない」ところまできたらやっとセーブオン(北関東ローカルコンビニ)に入り、1リットルのジュースを買う。で、とんぼ返りですw。ほぼ毎日こんなことしてました。足が強くなるはずだ。

いわゆる夜間徘徊なのですが、なんとなく「受験生だから仕方ない」という空気があり、安心してウロウロしていたのを思い出します(当方「怒られるのが耐え難くめんどい」という性格なので不良にはなれませんでした。いまでも締切がやぶれません。怒られるのがメンドウなのです)。

当然ですが昼間と夜と風景が違うので、同じ場所を見てもいちいち面白いような気がする。用もないのに河原に出たり、水門に登ったりしていました。

この傾向は昼間にもあって、たとえばすばらしく天気のいい秋の日などに、そこだけぼっかり薄暗い路地などあるとつい入りたくなります。通学中よくそんなことを思い、授業中「あの路地の先にいってたらどうなってたかな」と想像して遊んでいました。だんだんそれが高じて「なぜ昼間、街を出歩いてはいけないのだろうか」と思うようになりました。

学校の窓から見えるカナ山とかスイドウ山(そういう名前の山があったのです)にはだれもいないだろうけど、誰もいない山では何が起こっているのか、急に不意をついて見に行ったら何かいつもと違うことが起こっていないか、見に行きたい、という気持ち。

人が全くいない場所で営々と何かが(木でも虫でも風でもなんでもいいんですが)動いてるのが不思議で、見に行って確かめたいという気持ちです。何なんでしょうねアレはw「5秒前仮説」の変形ですかねえ。

変な話なのですが通学中、耐え切れず用事のない路地の奥の奥まで進んでしまったことがあって、その奥に5坪くらいの妙な空き地がありました。当方なぜかそこになけなしの50円玉を埋めましてw。授業中「あのいま誰もいない空間には俺のお金が埋まってる」と想像するとなんかたまらなくソワソワして、鳥肌が立つのです。今でも埋まってるんでしょうか(笑)

余談ですが後年、楳図かずお先生の『神の左手悪魔の右手』を読んだときに、自分で消しゴムに彫った神様を信じてる子供が出てくるのを見て(なんとなくわかるような気がする)と思いました。50円玉と消しゴムと同じような感じです。

これもたしか中3の頃ですが、そんなわけで大人になったら「いつでも昼間好きな時間に散歩できる仕事に就こう」と決めた覚えがあります。…この夢は実現しましたねwエライ。

まあ大体の人は高校を出れば「昼間ブラブラする」は可能ではある。

ですが当方、大学生の時昼間ブラブラしてても全くあの「不思議昂揚感」がなかったのでした。これはあれだ、目的があるからでしょうね。授業をサボって遊ぶとか、バイトするとか。「やらなきゃいけない」の対極としてやる「昼間ブラブラ」ではなぜか不思議気分の扉みたいなのは絶対に開いてくれなくて、無意味無目的無益なブラブラでないといけないのです(笑)当方これに気づくまで10年を要した。

漫画のアシスタントとして働き始めて、絵として綺麗なものカッコいいものをいっぱい描きました。するとなんですかね、何年かするとどうもそっちのほうに食指が動かなくなってくる。当方それに気が付いたのは、デジカメの中が「空き地の写真だらけ」になってたときですwなんでこんな写真ばっか撮ってるのか?自分でも不思議でしたが。

今でもよくはわかりませんが、無理に理由をつけるなら「意味に疲れた」んだと思いますwキレイに見せるためにできているものを、上手くなるために撮る。飽きた。ってことでしょう。何にも使われてない、空き地に心惹かれ目が行くのは「50円玉を埋めた」気持ちと根っこは同じだと思うのです。

これも後年ですが、諸星大二郎先生『僕とフリオと校庭で』にある路地を入ると別世界に行ってしまうという描写がありました。それだけなら『不思議の国のアリス』なんですが、『僕とフリオ』の面白いのは見た目は今までの世界と全く変わらないというところで、当方手をたたいて(そう、この感じ)と思いました。諸星先生にはこういうタイプの短編が他にもいくつかあって、こう目に力入れて読むwと「自分も気づかないうちに何回か当初の予定ではない世界にズレているのではないか」とやや本気で思わされてしまうのですが。

今日(正確には昨日か)深夜なんとなくブラブラコンビニまで歩いている途中、そんなことを思い出してみぞおちの奥でラムネがシュワシュワしてるような気持ちになりまして。こんなことが年に数回あるわけですw

無意味アンテナの感度が上がってる日なんでしょうが。いつかこんな気分の日に、路地の奥からひょっこり1リットルのジュース持った中学生の当方が出てくるんじゃないかと思われてならんのでした。


お粗末様でした<(_ _)>



…やっぱり画像がないのはつまらないw

文中紹介した短編はこの表紙が目印です(わざわざいま撮った)w

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たくさんのサポートを戴いており、イラストももう一通り送ったような気がするので…どんなお礼がいいですかねえ?考え中(._.)