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上方漫才の歴史と原型

これまでに何度も松竹芸能の漫才師に言及してきました。それとダウンタウンがどう関係するのかが問題です。ここで漫才の歴史をざっくり見通しておきましょう。
 
もともと「万歳」という芸能がありました。「ばんざい」ではなく「まんざい」です。奉祝芸というんでしょうか、お祝いを述べるような芸能が平安時代ぐらいからあった。当時は「千秋万歳」(せんずまんざい)とか呼ばれた。これが発展して、近代(明治)に「万歳」という、舞台で行う演芸になったわけです。
 
この演芸としての「万歳」は、基本的に関西(上方)で発展してきました。だから、関西が漫才の中心地で、関東がその後を追う形になっているのは仕方のないことです。
 
そこにはいろんな芸があって、基本的には「音曲」や「歌舞」がつきものでした。それに、お客にウケようとして、いろんな芸能を真似して取り入れていくわけです。それを表す言葉として「まねし漫才」というものがあります。
 
漫才はもともとイミテーションがベースになった、なんでもありの芸能なんです。つまり、漫才とは融通無碍です。だから、数年前に起こったマヂカルラブリーの「あれは漫才なのか?」という論争は、そもそもナンセンスです。
 
なんでもありなんだから、どんな漫才をやってもいい。むしろ、それでバズったマヂカルラブリーにとっては、おいしいわけですね。彼らにとっては、漫才であろうとなかろうと、どっちでもいい。ウケたら勝ちなんですから。
 
ともあれ、現在の漫才の原型を作った人が玉子屋円辰で、それをさらに発展させたのが砂川捨丸です。両者の共通点は、江州音頭の音頭取りだったこと。つまり、漫才はもともと音頭=「ウタネタ」だったわけです。彼らが登場してきたのは1900年前後でしょうか。
 
こうしたなか、吉本興業ができるのは1912年。小さな演芸場からスタートして、戦前には大阪で数十、東京にまで寄席を持つ大企業になりました。通天閣も所有していた。この企業が「万歳」という名称を現在の「漫才」に変更しています。1933年のことです。
 
このころに新しい漫才が登場した。それが横山エンタツ・花菱アチャコのコンビです。1930年にコンビを結成し、コンビ別れしたのが1934年だったかな? コンビとしての活動期間はたった4年ほどだったのですが、これ以降、現在に至るまで、彼らは「上方漫才の父」みたいに扱われているのです。
 
彼らのなにが新しかったのか。それはもともと着物姿で行う歌舞や音曲による、なんでもありの模倣芸としての「万歳」を、スーツ姿のスタイリッシュな「しゃべくり漫才」にしたんです。歌なし、踊りなし、着物なし、ただしゃべるだけです。
 
こんにちまで続く漫才の原型を作ったわけで、大変な革命ですし、偉大なコンビでした。ただ、押さえておきたいのは、このように、とてもざっくりとですが、「音曲漫才」の系統と、「しゃべくり漫才」の系統という、2系統が1930年代以降にできあがったということです。
 
それで、とりわけ戦後になると、「音曲漫才」は松竹芸能に多く、「しゃべくり漫才」は吉本興業に多かった、という時期があった。ダウンタウンの幼少期は、こうした時代に相当します。ですので、ダウンタウンが実は「歌ネタの名手」であるというのは、前者に影響されたからにほかならない、ということになります。
 
では、また次回。(梅)

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