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秋田實の上方漫才

ひとまず今回で松竹芸能についてのお話は最後です。とはいえ、今日触れる秋田實(1905-1977)は、今後もしばしば出てくると思います。上方漫才の歴史において、かなり重要な人物です。
 
前回は、秋田實が率いた芸人たちが松竹芸能に参加して、戦後の漫才界の主流を作ったということを書きました。つまり、彼を慕う芸人たちがたくさんいたということです。
 
生まれは大阪の玉造。というわけで、彼はコテコテの大阪人なはずです。でも、実はそうではなかった。この人、インテリなんです。父親は工場に勤めていたんじゃなかったかな? だから、庶民といえば庶民なんですが、東大に入るぐらいの頭のよさでした。というわけで、若いころは大阪の庶民のことなんか、なにひとつ考えたことなかったかもしれない。
 
東大に入ると、「新人会」というところに入ります。こちらはコテコテの左翼の学生運動団体でした。共産党員だったかどうかは調べていないので知りませんが、その新派だったことは間違いなくて、警察からもにらまれた存在だった。
 
もちろん、こうした左翼運動は取り締まりが厳しくて、秋田自身の活動もかなり困難な状況になったと思います。そんなときに、縁あって、エンタツ・アチャコを紹介されて、そのブレーンになるわけです。彼は学生のころから欧米のユーモア作品が好きだったので、趣味が活かせる機会に恵まれた。
 
それで、吉本興業専属の漫才作家になった。1930年頃のことでしょう。まあ吉本興業としても、当時は漫才全盛のころになりつつあったので、ネタ切れにならないように、秋田をはじめインテリの作家を集めて専属にして、台本をどんどん書かせることにした。漫才師と漫才作家の分業制が確立されたわけです。
 
その後、秋田は戦前には「新興演芸部」に移籍したり、戦後は満州から帰って、小林一三が主宰する「宝塚新芸座」に所属したりします。この時に彼のもとに集まった漫才師が、夢路いとし・喜味こいし、秋田Aスケ・Bスケ、ミヤコ蝶々・南都雄二、ミスワカサ・島ひろしなどの若手たち。彼らはのちに上方漫才の中心的芸人となります。
 
というわけで、漫才作家・秋田實の周りには、戦前はエンタツ・アチャコ、戦後はいとし・こいしらと、しゃべくり漫才の達人が集まった。そういったこともあって、上方漫才の歴史では秋田の名前を欠くことはできない。
 
ただ、秋田については、私はいろいろと疑問を感じている。たとえば、漫才師よりも漫才作家の方が目立っていないだろうかということ。インテリなんでねぇ、無学・文盲の漫才師からしたら、大げさにいえば雲の上の存在に見えたかも。
 
そして、秋田自身が著した書籍がいくつも残されているのに対して、漫才師自身が手がけた書籍が皆無というアンバランスが見られる。くわえて、秋田は自身の著作で自分のことを語るが、芸人についてはあまり触れないというアンバランスもある。
 
それゆえ、これも大げさかもしれませんが、芸人自身の存在や言葉が、インテリ・秋田によって抑圧されてしまったんじゃないか、という感じもします。別の言い方をすれば、芸人よりも秋田實という存在の方が、上方漫才界のなかで美化されてしまったのではないか。
 
まあ、秋田にまつわる疑問点は、マンザイブームやダウンタウンとも関連するはずなので、また書きます。とにかく、漫才は漫才作家が書いたものを使うではなく、自分で書こうという漫才師の意思が、秋田が亡くなった1970年代後半に生まれて、それがマンザイブームへとつながっていった。こうした現象を、漫才師の「シンガーソングライター化」だと見なす人もいます。
 
今回も長くなりましたので、ここまでとします。結局、しゃべくり漫才って、秋田實の影響によって、実は漫才がインテリ化や西洋化したものだといえるかもしれません。
 
では、また次回。(梅)

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