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朝顔フィルム

もう一年以上前のことだったと思う。一年生の終業式の日、息子が学校から持ち帰ってきたのだった。乳白色のフィルムケースに、学校で育てた朝顔の種が詰め込まれていた。今どきフィルムケースなんて学校にあるのかと疑問に思ったが、入れ物が欲しくて、どうやら息子は僕の部屋に転がっていた一つを拝借したらしい。そのうち僕の財布の中身も拝借するようになるだろう。
それにしても、多くないか。ケースの半分ほどの嵩になろうか。三十個はくだらない。「せっかくできたのにもったいない」と言って、自分の育てた朝顔からだけでなく、要らないというクラスメートからも種を集めてもらって来たと言う。
そこまでしたのだから、早速家で育て始めるのかと思いきや、持ち帰った数分後にはそんなものは無かったかのように放り出し、そのケースも行方知らずとなっていた。

発見されたのは、それから一年以上経ってからのことである。
その日も朝のニュース番組は、ただただ水でかさ増しした薄墨を垂れ流していた。テレビを消してソファーに横になる。すっかり疲れてしまったようだ。消えたテレビの暗闇の中に、干からびた中年男の姿があった。

終わり。きっとこの男は終わりへ向かっている。ただこの先にあるものは、穴。掘っても掘っても、何も見つからない。深く掘り進むこともなく、途中土砂に生き埋めにされて劇的に終わりを迎えるでもなく、単調で停滞を続ける、浅く薄暗い穴。時間をかけて終わる穴。
真っ暗闇の中に男が、沈みも浮かびもしないまま、ただそこに漂っている。同情とも哀情ともちがう、不可解な感情で満ちていく。気がつくと僕はテレビの傍に近寄り、覗き込むようにやつれた我が中年の顔面を覗き込んでいた。
この中に沈んでいくことも、抜け出してくることもない、なんて退屈な地獄だろう。絶望より倦怠が勝り、その場で体が崩れ落ちた。その拍子、投げ出された右手の指に何かが触れた。テレビ台の隙間に、乳白色の円柱。朝顔の種。手を伸ばすとちょうど掌に収まる。今日ここに横たわった僕が、握りしめるためにそれはあったのだ。持ち上げて軽く振ってみると、程よい重みを感じる。僕の重みもこんなもんだろう。起き上がって窓を開けると、柔らかい風が顔を撫でた。

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