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行き当たりばったり記・その5

胃穿孔になる

 1969年10月21日、私は21歳の誕生日を迎えた。とはいえ、誕生日のパーティーをやるわけではなく、1の付く日なのでいつものように一の日会に渋谷の霞へ行った。そしていつものようにコーヒーを飲みながら話をしていたのだが……話をしているうちに胃のあたりがシクシクと痛みだし、やがて内側から釘で刺されているような激痛となってとうとうのたうち回る騒ぎになってしまった。
 横田順彌が109に「あえいでます」と電話を掛けてくれ救急車がやってきたが、霞は道玄坂小路という細い路地にあるので店の前まで来られない。鏡明が私を担いでくれたのをうっすらと覚えている。あと覚えているのは、かつぎ込まれた病院(渋谷病院)にはエレベーターがないので担架に括り付けられて看護師さんに階段を運ばれていったことくらいだ。意識はほとんどなかったけれど、とにかく痛いというのを通り越して激痛というのもお手柔らかなくらいのひどい痛みだった。後で聞いた話では、胃穿孔で胃の内容物が溢れだして腹膜炎を起こしていたが、腹膜炎は苦痛のなかでも一、二を争うくらい強烈に痛いということらしい。痛みのために筋肉が硬直して、体が棒のようになっていたような気がする。
 気がつくとベッドに横になって絶え間なく嘔吐してた。胃の2/3を切除され、胃の内容物で汚れた腸を引っ張り出して洗浄したということだった。嘔吐は傷口からの出血のためらしかったが、とにかくその苦しいことといったらない。うとうとしかけると嘔吐し、またうとうとしかけると嘔吐するというぐあいだった。ベッドの脇に家政婦の人が付いてくれていたが、嘔吐で目を覚まして、多少は寝られたかと思って時間を聞くと10分くらいしか経っていなかった。意識は朦朧としているのに嘔吐のたびに意識が戻って気絶することも出来ない。そうやっているあいだに、頭の中に浮かんでくるイメージというのが小川のせせらぎのなかに置かれているコカコーラだというのもお笑いなのだが。
 やがて夜が明けて苦しみも終わったのだと思っていたが、ずいぶん後になって妹から聞いた話では三日三晩生死の境を彷徨っていたらしい。それでも、傷跡は痛むものの苦痛にのたうちまわることもなくなっていった。
 病状が落ち着いてくると、心配した一の日会の仲間達も見舞いに来てくれた。ただ、この連中、ふだんから面白いことを言い合うのが性癖になっていて――それが仕事になっていった人もいるわけだが――私の入院見舞いなどというイベントにかなり盛り上がっていたようだ。しかも、16針も縫った腹の傷はまったく治ってはいない、笑ったりするとそのたびに痛くて呻いてしまう。それが面白くて後から後から冗談を云うものだから痛いのなんの、見舞いに来てくれたのは嬉しいし、へんに深刻にならずに笑い飛ばしてくれたのも嬉しかった。
 それにしても痛いのは痛い。おまけに傷口が治っていないばかりか、いったん引っ張り出してまた元に収めた腸も落ち着いてはいないようだった。それが大笑いをしたもので、けっこうダメージを喰らってしまったらしい。嘘かほんとかもうわからないが、再手術という話も出たような気がする。
 そんなことがありつつも、ついに退院の日を迎えることが出来た。家に帰り自分の部屋に入ったときにびっくりしたのは、世界が色彩に満ちあふれているということだった。何の変哲もない私の部屋だったが、ほぼ白一色の病室とはまったく印象が違っていたのだった。
 これが21歳の誕生日を境に1/3の胃で人生を送ることになった顛末。
 ここまで書いたところで、ふと不思議なことを思い出した。入院中に窓からベランダを眺めたら、そこにひきがえるのいるのが見えた。しかし、どう考えても渋谷の病院のベランダにひきがえるがいるわけはない。あれは幻視だったんだろうか。
 蛇足になるが、見舞いに来た一の日会の仲間に「胃穿孔も1回ならいいけど、10回やると大変なことになるんだ。どうしてかっていうと『せん』が『まん』になるからいまんこう」と言ったという話が一部で信じられているようだが、これは事実と反する。この発言は病院ではなく、その後のSFファンの集まりがあった時のことだ。それを聞いた伊藤典夫が爆発的に笑い出したのを今でも覚えている。


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