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蛇は世界を再生させるー蛇の神話的イメージー

ヘビが脱皮をするのは生まれ変わるためです。月が影を捨てるのも生まれ変わるためです。ヘビは月と同じ意味を持ったシンボルです。ときどきヘビは自分自身の尻尾に食いついている円環として表現されます。それは生命のイメージです。」(注1)

『神話の力』という本のなかで、ジョーゼフ・キャンベルはこのように語っていた。
蛇は、世界各地の多くの神話や伝説で登場し、肯定的にも否定的にも描かれてきた存在だ。
世界に数多くある蛇に関するエピソードのなかで、最も有名なのが「創世記」ではないだろうか。

神が食べることを禁じた果実を人間は食べてしまうが、それは蛇が女にその果実を食べるよう唆したからなのだと説明される。
それについてキャンベルは「ヘビは過去を捨てて生きつづける生命のシンボルになっています」と述べていた。

蛇というのは不思議な生き物だ。手足のない細長い体を持ち、不気味に地を這い、脱皮を繰り返す。
一切の前情報を持たずに蛇に遭遇したとき、我々はどんな感情を抱くのだろう?

そういった蛇の不思議さや魅力にとりつかれた研究者は数多い。
例えば、吉野裕子の『蛇ー日本の蛇信仰』、谷川健一の『蛇ー不死と再生の民俗』、安田喜憲『蛇と十字架ー東西の風土と宗教』などを読むだけでも、蛇信仰の多様性に圧倒される。
もちろん今取り上げたような本に書かれている内容が正確なものなのかといったことについては検証が必要な部分もあるだろう。

私事ではあるが、大学時代に昔話に関する演習授業をとっており、そのなかで蛇の伝承と上記のような先行研究を紹介したことがある。
その際に教授は「蛇の研究者っていうのはみんな何かに取り憑かれているようだよね」と苦笑混じりに言っていたのをよく覚えている。つまり、蛇を(主に人文学的観点から)研究している人々は、蛇や蛇信仰といったものを少しばかり過大評価しているということなのだろう。

だが裏を返せば、取り憑かれたように研究してしまうほどの理由が蛇にはあるということだ。
例えば、私はいま災害伝承に興味を持っているのだが、災害を語る神話や伝説にも蛇というものは登場してくる。

北ボルネオのズズン族の間で語られる神話にこういうものがある。男たちが大きな幹を切っていると、そこから血が出始め、木ではなく蛇を切っていたことに気が付いた。彼らは蛇を殺し、肉と皮を持ち帰り、蛇皮で太鼓を作って酒宴をあげた。真夜中になると、太鼓がひとりでに鳴り始め、ほどなく雨風が起きて洪水になり家々は流されてしまったのだという。(注2)

また、日本にも蛇と洪水に関連する伝説がある。北海道の「桂の木と大蛇」という伝説だ。ある晩、別当の男の夢に白髪の翁が現れ、「私は沢の奥に住む大蛇だ。沢から海へと出て、天に登り竜になりたいのだが、桂の木が邪魔で移動できない。どうかこの木を切ってくれないか。」と言った。しかし別当は、蛇が海に出るときは大雨になり洪水が引き起こされるという言い伝えがあることを知っていたため、今に至るまで木を切らずにいるのだという。(注3)

どちらの場合も、洪水が蛇によって引き起こされるものだと語っている。
最初に書いたことに戻るが、蛇は「生まれ変わ」り、「過去を捨てて生き続ける生命のシンボル」なのだとキャンベルは言っていた。

そのような蛇が洪水と結び付けられたのも何か意味があるように思う。
洪水というものは、すべてのものを流してしまい、世界の終末を引き起こす現象としても描かれることがある。だが同時に、そこから世界の新たな始まりも語られる。
有名な「ノアの方舟」も、洪水による世界の終末とそこからの再生を描いた神話だ。

そういった世界の〈終末/再生〉という意味合いを持つ洪水と、脱皮をし「過去を捨てて生き続ける生命のシンボル」と理解された蛇が重ね合わされたことで、蛇と洪水が結びつけられたのではないだろうか。
つまり、蛇は伝承の中で、自身のみならず「世界を再生させる」という役割を果たしているのではないだろうか。

この考えが妥当なものであるのかどうか、さらなる検証を続けていくべきなのだろう。
いずれにせよ、蛇は多くの伝承に登場してきたし、各地で蛇に対する信仰というものも存在していたようだ。私も蛇の持つ魅力に「取り憑かれ」ないよう十分注意しながら、今後も研究を続けていこう。


【注釈】
注1: ジョーゼフ・キャンベル、ビル・モイヤーズ『神話の力』飛田茂雄訳、早川書房、2010年
注2: 松村武雄編『世界神話伝説大系15 インドネシア・ベトナムの神話伝説』名著普及会、1979年
注3: 宮田登編『日本伝説大系第1巻 北海道・北奥羽』みずうみ書房、1985年

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