いつかの願いが叶う日

その日私は、妹と一緒にマルシェに行く予定にしていました。

春に崩した体調も徐々に安定し、私は静養のために家をしばらく離れていました。

自然の中で英気を養う日々。
夏の終わりの美しい空や少しずつ冷たくなっていく空気から元気をもらって暮らしていました。

近くに昔からの湯治場があります。
家にいて静養ができているかと問われれば、決してできていませんでした。
気がかりなあれやこれやを片づけていると、結局休まりません。
体は回復できても、心の安まる時がありませんでした。

山での暮らしを始めて1週間経ち、驚くほど私は元気になっていました。
目の前を流れる川のせせらぎも、風に揺れる葉の音も、ゆっくりと進めばいいことを思い出させてくれました。

今年の夏は長く、いつまで暑さが続くのだろうと不安になりました。
暑さは体力を奪います。
外に出る気力を何度も削がれました。

だけど本来ならすでに冷え込んでいたであろう山で、ほんのわずかな期間でも静養生活を送ることができたのは、今年の異常に長すぎる残暑のおかげでもあります。

私が借りていたのは大叔父の家で、祖母の生家にあたります。
すでに住人はおらず、母の従兄が時々手入れに行くことをきいていました。
大きな屋敷です。
子どもの頃に何度か遊びに行ったことがあるけれど、立派すぎて近寄りがたい印象でした。

母方の親戚との付き合いは、ほとんどありません。
祖母とつながりが深ければ深いほど、私は避けてきました。
同じ血が流れていることを呪いだと感じていた時期もあります。

静養先は選ぼうと思えば、いくらでも選ぶことができました。
それなのに真っ先に思い浮かんだのは、大叔父の家でした。
不思議なこともあるものだと思っていました。

マルシェでは無農薬栽培の自然茶や、有名なドライフラワーのお店のスワッグを購入したいなぁと思っていました。
久しぶりに会う妹との会話も楽しみにしていました。
ジャムも買いたいと思っていました。
食いしん坊の妹と、お昼ご飯を食べに行くことも決めていました。
とにかく、とても待ち遠しく思っていました。

9月29日、金曜日。
今年の中秋の名月は満月らしく、その次に同じ条件が重なるのは7年後だとテレビで言っていました。

屋敷の庭で見た月は雲がうっすらかかっていて、だけどちゃんとまん丸な形も、黄色の美しさも見ることができました。
すぐ隣を飛行機雲が横切っていて、すごく印象的な中秋の名月が記憶に焼き付きました。
日曜日の朝、妹が車で迎えに来てくれることにわくわくしながら、眠りにつきました。

30日の土曜日。
うまく表現できないけれど、なんだか不思議な感覚がありました。
もうしばらくここで静養しようと思っていた気持ちが、わずかに変化していました。

近くの川に行くと、いつものように穏やかに水が流れていました。
ゴツゴツした岩にぶつかりながら、だけどそこから素直に方向を変え、また静かに流れていく水の様子が、普段より鮮明に見えました。

祖母が亡くなったという連絡が入ったのは、土曜の昼過ぎでした。

祖母はとても心の弱い人だったと思います。
そのせいでたくさんの人を傷つけ、嘘をつき、子どもたちの人生を変えてしまいました。
自己保身の塊のような人でした。
母がそのせいでノイローゼになったのは、私が中学生の時でした。

大切だった場所は、もっとも関わりたくない場所になりました。
ユニークで大好きだった叔母や、大人しくても優しかった叔父が別人のように変わっていく様子も、元々苦手だった伯母が大嫌いになり、それが憎しみに変わることも、14歳だった私には重荷でした。

多額のお金は易々と人を変えます。
失ったものは計り知れません。
ノイローゼになってしまった母のかわりに、私は親戚へ応対しなければいけませんでした。
母を傷つけた相手を父が許すはずもなく、母方との関係は断絶しました。

そっとしておいてください。
押しかけてくる親戚に対して、玄関先でそう声をふりしぼる中学生の私を時々思い出します。

私は心の中で、ありったけの力を込めていつも願いました。
すべてなくなる日が、一日でも早く来ますように。
解放される日が来ますように。
いつの日か全部乗り越えていけますように。

もはや責任の所在はどうでもよくて、ただただ、心を縛り付ける重たい感情を手放せる日が来ることだけを願いました。

祖母の嘘が誤解を生み、誤解はさらに誤解を深め、仲がよかった母の姉たち、妹と弟は仲違いをしたままここまで生きてきました。
それは私たちいとこにも当然影響を及ぼしました。

私が唯一気がかりだったのは、母の妹です。
寂しがり屋で甘えん坊の叔母は、私の母を「かあさん」と呼んで慕っていました。
会えなくなって数十年。
世話が焼ける面倒な性格でも、母はいつも気にかけていました。
生き別れのようになっていることが、母の中でうまく消化できるのか心配でした。

しばらく前に、家族で話し合っていることがありました。
母の気持ちを尊重しつつ、葬儀には出席すべきだと。
それは父も同じ考えでした。

祖母の葬儀には出ないと決めていた母でしたが、亡くなってみないと分からない感情があるはずだと思っていました。
自分の母親に対する気持ちは一切残っていないと言っていたけれど、その時にならないと分からないよと言い続けました。

常識的なことを省いても、お葬式には出てほしいと思っていました。
母を苦しめてきた思いだけではなく、祖母の体をともちゃんとお別れをして、気持ちに区切りをつけてほしいと願っていました。

祖母の棺を前に、母の口から出た言葉は「おかあさん」でした。
何度も何度も呼んでいました。
もう二度と集まることはないと思っていた5人がそこにいました。
気がかりだった妹と顔を合わせることが叶いました。

いろんなことがありすぎて、会話が弾んだかと言われると決してそうではありませんでした。
祖母は嘘をついたままこの世を去りました。
そのことを知っているのは、一番上の伯母と母だけです。

ひとつの嘘が多くの人の一生を狂わせました。
それはもう取り返しがつきません。
決して元には戻りません。

祖母の嘘は、保身のためでした。
子どもたちの人生を犠牲にしてまでも守らなければいけなかった自分の身。
それを危うくさせた人物が亡くなったのは、半月ほど前だったそうです。

私には、そのどちらも憎しみの元凶でした。
いつも頭の中を占めていたわけではありません。
それでも、あの一件さえなければ、私がこれほど潔癖になることも、他人の嘘に過敏になることも、もう少し抑えられたのではないかと思うときがあります。

それらのすべてから解放されたいと、ずっと願ってきました。
存在がなくなった人に縛られるのはやめます。
やっと無になったのだと思えました。
水の流れが自然に向きを変えるように、無理することなく、そう思えた瞬間でした。

母と叔母の再会が叶ったことも、胸のつかえがとれたひとつの理由です。

どうしてこうなったのかと理由を探すことが必要だった時期もあります。
だけど起きてしまったことは変わりません。

目の前の事実だけを見つめ、何ができるかをいつも考えてきました。
起こったことが自分のせいではなくても、それが人生に降りかかってきたら、できるのは乗り越えていくことだけだと思って生きてきました。

たとえ他人のせいであっても、そうしているうちは、乗り越えることができないと思っていました。
すべての人に当てはまるわけではないと分かっています。
私の考え方が正しいとも思いません。
自分の性分を考えたときに、そう考えることが一番乗り越えやすかったのだろうと思いました。

大叔父の屋敷は、処分することになっているそうです。
昨日、静養先の荷物をまとめて自分の家に帰りました。

同じような日常があります。
マルシェに行けなかったので一緒にランチができなかった妹は、来週の日曜は空いているよと言っていました。
ケンタッキーが食べたいそうです。

母は解放されたような顔をしています。
きっと私も同じような表情をしているのではないかと思います。

昨日から急に冷え込み、慌てて毛布を加えました。
喘息の発作も出ていません。

体は確実に回復しています。
心持ちがこれまでとガラリと変わったことは、私にさらなる元気を取り戻させてくれるのではないかと思います。
大好きな季節をとても晴れやかに、清々しく迎えようとしています。