見出し画像

大槻ケンヂと絶望少女達という瘡蓋が甦る【かくしごと】

かつて熱心に追っていたコンテンツが終わりを迎え、時を経て甦った経験、誰しも一回くらいはあると思うのだが、どうだろうか。そしてそれが自分にとって特異な位置づけに値する作品であったなら。

だけど 想い 止められぬなら

私は現在放送中のアニメ「かくしごと」を観ている。
そのコラボ企画としてその作者久米田康治がかつて週刊少年マガジンで連載しアニメ化も果たした「さよなら絶望先生」のOPを担当した大槻ケンヂと絶望少女達が帰ってきたのだ。

2009年の3期『懺・さよなら絶望先生』をもってテレビアニメが完結し
テレビシリーズBlu-ray BOXが発売に伴い、大槻ケンヂと絶望少女達最後の楽曲としてそのテーマソングが誕生したのが2011年なので大槻ケンヂと絶望少女達の9年ぶりの新曲である。
原作完結が2012年なので約8年ぶりとなる。原作終了から8年という時間の流れに卒倒しそうになる。

この情報を聞いた時「ウオオオオ!!!!」という歓声が上げながら耳が赤くなるような、脇からイヤな汗をかくような感覚も感じていた。

まさか、よりにもよってさよなら絶望先生の、あのユニットが、帰ってくるなどとは。

「さよなら絶望先生」

私にとってさよなら絶望先生という作品は青春の1ページなどという綺麗な存在ではない。言うとすれば、傷痕、カサブタに近い。
10代に負った傷痕がほぼ消えかかってきた時に今そのカサブタをひっぺがそうとしてきている、さよなら絶望先生が、大槻ケンヂと絶望少女達が。

10代に最も読んでいた漫画と問われたら間違いなく本作を挙げてしまうだろう。この作品が私のあらゆる分野での趣味嗜好に影響を与えている。
主人公、糸    色望先生の大正〜昭和風味溢れる着物の着こなしも
性癖の見本市のような二のへ組のヒロイン達も
糸色望の愛読書「人間失格」からポロロッカ現象のように日本文学を嗜んでいったことも

何もかも私の血肉となっている。思えば深夜アニメという概念をはじめて意識して観たのもこのアニメかもしれない。
未だに私にとって神谷浩史といえば糸色望だし、11月4日は先生の誕生日だし、バレンタインデーは好きな子の好きな子が分かる日でありそれは99%自分ではない。

1話完結のギャグ漫画とは思えない衝撃の終わり方をした原作の完結により、それまでのアニメのOP映像が結末を暗示していたという考察をたくさん観た。だが当時の私にとって社会を皮肉ったようなブラックコメディ作品としての絶望先生が好きなのだ。その考察は考察として作品を楽しむべきだ。
と思いながらそんな考察を読み納得しながらもどこか冷めた目で観ていたことを思い出す。今では床に額をこすりつけながら叫びたくなる思い出だ。

大槻ケンヂと絶望少女達

「大槻ケンヂと絶望少女達」このユニットはアニメで数多くの楽曲を製作したが、特に各シーズンのOP
第一期OP「人として軸がぶれている」
第二期OP「空想ルンバ」
第三期OP「林檎もぎれビーム!」

は本当に幾度となく聴いたことだろう。

それならば居直れ!もうブレブレブレブレブレまくって
震えてるの分かんねえようにしてやれ

アニメを観ている自分自身と他の奴らを冷笑しながら、開き直りにも近い『さよなら絶望先生』OP「人として軸がぶれている」

人に値段があるのなら それは誰が決めるのか?
僕もプライスを決めようか?
君の価値さえも 決めかねて
分からなくて

「俺の値段を誰が決めた?」と絶望を歌いながらその日が来るのを信じて踊る『俗・さよなら絶望先生』OP「空想ルンバ」


リアルタイムでこの曲を聴きながら本質を理解していたとは到底当時の私には思えないし、今でもそんなおこがましいことは言えない。しかし10代の私はこれらの曲を繰り替えし繰り替えし聴いた。PSPにインポートし外でも聴いた。時に抗うつ剤のように。言語化は出来なくとも感覚的に理解できるものはあるのだ。10代の悩める少年にこれらの楽曲は効いた。
まるで自分の悩みを歌ってくれているように感じていた。

君が想う そのままのこと 歌う誰か 見つけても
すぐに恋に 落ちてはダメさ
「お仕事でやってるだけかもよ」

だが俗・の約1年後に放送された『懺・さよなら絶望先生』OP「林檎もぎれビーム!」はこれである。自分の悩みを歌ってくれる歌を歌ってくれた君たちがそんなことを言うのか。腹パンどころの話ではない。崖から引っ張り上げられた後に蹴り落とされたような気分になる。

しかし

「共に歌え すべて変わるよ  変われ 飛べよ!飛ぶのさ!」

「さぁ行こうぜ!絶望のわずかなこっち側へ きっとシャングリラだよ 君となら 合言葉 林檎もぎれビーム!」

と絶望を突き抜けた先を歌うそのカタルシス。
お仕事であることすら、絶望すら受け入れて進めばシャングリラに行けるよという強いメッセージ。

ユア ライフ チェンジス エブリシング

さよなら絶望先生、私の趣味嗜好に多大な影響を与え、10代の少年の懊悩とそれに対するヒントを与えてくれたコンテンツで、私にとって大切な作品だが、人間思春期の苦悩というものは大概黒歴史となるものではないだろうか?
思春期の苦悩!今ここで思春期の苦悩などと書くのも背中がかゆくなりそうになるのを堪えながらキーボードを叩いている。

原作が終了し、1年経ち、2年と経ち、やがて20代になった私はさよなら絶望先生を読む機会が減っていきこれらの楽曲も聴かなくなった。
忘れたい、布団を被ってアアアアアアアア!!!!!!!と言いたくなるような10代の苦悩がまた甦るのを無意識に恐れていたのかもしれない。
自分の過去の傷痕など誰が見たいものか。出来ることなら永遠に蓋をしておきたいはずだ。
私もそうだが太宰治にハマる10代は多い。それはその時期特有の苦悩や悩み肥大化していく自我から来る誰にもわかってくれない苦悩を君だけではない、まるで自分のことを分かってくれていると感じさせてくれるからだ。
しかし麻疹にも例えられているように、そんな苦悩は忘れてしまうとケロッと忘れてしまい太宰治を読まなくなる人もまた多い。

しかしある時期から私はさよなら絶望先生を再び読み始めた。思春期の苦悩という傷も時間とともにふさがっただけでなく、自分の中でそれを昇華出来るようになったからかもしれない。
今でもブラックコメディとして絶望先生は面白いし、アニメOPを聴いて思う所もあるのだが、一種ノスタルジーを感じながらエンタメとして楽しめている。

「あれから」

言い忘れていたが、アニメ「かくしごと」も面白い。
主人公後藤 可久士がCV神谷浩史であることの一種懐かしさと久米田康治のマンガ家生活としての経験から来るのだろうなというネタの多様さがありながら、縦軸には父と娘の暖かい交流がある。現代?未来?編で後藤 可久士に何が起きたのかの謎も気になる。

しかし今回のコラボは昇華出来るようになった昔の曲を聴いたり、読むのとは話が違う。
新曲なのである。本来なら甘美な響きであるはずの言葉だが、私には恐ろしい。
アルバムをめくっていたら写真から手が伸びてきたような気分だ。上でも書いたが、10代に傷を負い、ほぼ消えかかってきた時に今そのカサブタをひっぺがそうとしにきている、大槻ケンヂと絶望少女達が。

あれから8年経った。私は四捨五入したら30歳にもなる年齢になってしまったが、絶望のわずかな「こっちがわ」のシャングリラへ行けたのだろうか。

皮肉にも新曲の曲名は「あれから」である。私は視聴動画も聴けずにいる。この曲を聴くのが楽しみでもあり、怖くてたまらない。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?